(写真)講演会に足を運んでくれた同級生たち。平日の朝っぱらから来てくれて、ありがとう!! 久しぶり会えてうれしかった〜! (ここに写真、載せていいか確認せんかったけど、いいやろ? せっかく写真館の人が撮ってくれたけん。もし顔が出て都合が悪かったら、連絡して〜。顔のところば消すけん)
本日は、母校である香椎高校の創立記念88周年の創立記念日だった。記念講演は、つつがなく終えることができた。実に、濃密な一日だった。
午後、用事を終えて帰宅し、テレビのニュースから「福岡市内で新型インフルエンザ初の感染者」のニュースが流れた。志免町は、香椎高校の学区内である。つくづく、休校にならずにすんでよかったと思う。
講演は、体育館で行われた。パワーポイントを映し出すためのスクリーンも大きく設置され、演壇も麗しく、整然としたムードである。1100人を超える生徒と関係者が参加しているが、会場が静かなのに驚く。
合計90分のうち、最初の20分は、わたしが昨年登場したテレビ番組『世界に嫁いだ日本女性/密着!海外仰天ライフ』のDVDを流してもらう。
その時点で、すでに居眠りを始めている生徒数名。
こらっ、ここですでに寝るか! 早すぎるやろ!
と揺さぶり起こしたい衝動にかられつつも、気を取り直して壇上に上がる。
自分が着用しているサリーの話にはじまり、インドの概要、それから高校を卒業してから今日に至るまでの、わたし自身の軌跡についてを、写真や文章を織り交ぜながら、話した。
壇上から見ると、真剣に話を聞いている人と、ぼんやりしている人と、寝込んでいる人と、それぞれの様子が、館内が薄暗いとはいえ、かなりよくわかる。
自分としては、かなりユニークかつ情熱的に、さまざまを話したつもりである。しかし、今の高校生たちに、どこまで何が伝わったのか、それは正直なところ、よくわからなかった。
ただ、数少ない人たちでもいいから、少しでも、何かのメッセージが引っかかってくれれば、と願う。
生徒たちは、お行儀がよく、態度もよかった。自分たちが高校生の時のような「悪そう」な子が見当たらないのが新鮮だった。ただ、善し悪しは別にして、
「ここは笑うところやろ!」
というところでも、笑いの反応が全く得られなかったのは、かなり寂しかった。
壇上と生徒たちの間に、感性の差異、世代の差異という川が流れているような気もした。わたしが一人で熱すぎる気もしたが、途中で路線を変えるわけにも行かず、取り敢えず自分の世界を押し通した。
高校時代の写真が映し出されたとき、笑い声が聞こえた。その「旧式なファッション」に受けているのは、同級生たちであった。
わたしには子供がおらず、普段、日本の高校生と関わる機会もなく、今の高校生の事情がほとんどわからなかった。つまりは自分が高校生の時のことを思い出して、あのときの自分に語りかけたいことを話にしたつもりだった。
だが、時代は確実に移り変わっていて、人々が興味を持つ対象も移り変わっていて……ということを、肌で感じさせられた。
さて、講演のあとは、校長先生や同窓会の役員の方々、そしてわたしの母や妹夫婦を交えてのランチ。今日の再会で最も印象に残っているのは、篠崎先生との対面だ。
「先生〜〜!」
と言って、握手だけでは足らず、ついついハグをしてしまったら、
「なんしようとや!」
と押し返されてしまった。
いかん。
ここは日本である。
しかし、ハグしたい衝動にかられるほどに、26年振りの再会は懐かしく、思いがけず、うれしいものだった。篠崎先生は現在退職し、自宅で「農業」をしていらっしゃるとのこと。ともあれ、相変わらずお元気そうで、なによりである。
篠崎先生は体育教師だった。一時期、わたしのいたクラスの副担任だったこともあり、よく顔を合わせていた。いつも竹刀を持ち歩き、振り回し、わたしが何も悪いことをしていない(はず)にも関わらず、しょっちゅう竹刀でぶたれていた。
「なんで先生、殴ると〜! もう、すか〜ん!」
と、しょっちゅう文句を言っていたものである。ぶたれる理由は覚えていないが、竹刀の痛みは覚えている。不条理である。
学年の同窓会評議員代表の任務をわたしに押し付けたのも、篠崎先生である。その経緯は、同窓会のホームページのコラム(←文字をクリック)にも記している。
篠崎先生から言われたことで、忘れられない言葉もある。卒業当時、高校の国語の先生になると言っていたわたしに、他の生き方を示唆してくれる言葉をくれたのは、先生だった。
ご自身も香椎高校の卒業生で、香椎高校で何十年も教鞭をとっていた先生が、しかし教師以外の道の可能性を知らしめてくれたことは、わたしの心にきちんと刻まれていた。
そのときのエピソードもここに記している(←文字をクリック)。
講演もさることながら、この食事中の、年配同窓生の方々との会話が面白かった。こてこての博多弁が懐かしく、わたしの口からも速やかにこぼれ出る。三つ子の魂百まで、である。
「お前は逆らってばっかり、おったもんなあ!」
と篠崎先生は言う。わたしは、何に逆らっていたのだろう。自分では逆らっていた記憶はないのだが……。自分では理由なくぶたれていると思っていたが、どうやら理由あってぶたれていたようである。
「先生、今、あんなことしよったら、学校におられんくなるやろ?!」
と、言わずにはいられない。そう思っているのはわたしだけでは、当然ないらしい。
「今やったら、警察につかまっとうばい!」
などと、卒業生から、よく言われるらしい。そりゃそうだろう。
みなで弁当を食べながら、話は過去に遡る。
「生徒を張り飛ばして鼓膜ば破ったこともありますけんね。で、近所の病院の先生も、事情をわかっとうけん、篠崎先生に殴られたんなら、お前が悪い、ってことになりよったとですよ」
と篠崎先生。前時代的ダイナミックな発言が飛び出して笑いの渦。などと笑っているのはまた、野蛮きわまりないのだろうか。
「オレの甥がインドに住んどって、こないだマンゴーば送って来た。ありゃ、こっちじゃ高いらしいな」
と篠崎先生。
「え? インドにお住まいなんですか? どこです?」
「知らん。だいたい、オレがそれを知ってどうするとや?」
「え〜、同じ都市に住んでらしたら、わたしが挨拶とか、できるじゃないですか。どこの会社ですか?」
「○通」
「お名前は?」
「○○内」
そんなわけで、インド○通の○○内さん。わたしは篠崎先生の教え子であります。先生からは、「マンゴーがうまかった」といったコメントは一切ありませんでしたが、さておき、本当に情熱的で、心に残る先生でした。今日、先生にお目にかかれたことは、本当にうれしかったです。
食事の後は、秋に行われる一大同窓会の役員を担当してくれている同級生ら数名とおしゃべり(打ち合わせ)をし、その後、「服飾デザイン科」のクラスへ、サリーを見せるために立ち寄る。
以前は「被服科」と呼ばれていたこのクラス。当時から公立高校にしては珍しい特別なクラスだったが、今でも評価が高いのだという。文化祭の時のファッションショーは、メインイヴェントであったが、それは今も変わらないらしい。
ちなみに被服科の木村先生(旧姓末安先生)は、わたしが在校時にいらした新任の先生だった。講演が終わって、体育館から外へ出る時に、先生の姿を一目見て、すぐに末安先生とわかって感激した。
彼女は当時、バスケット部の副々顧問で、たま〜に練習を見に来てくれていた。末安先生とおしゃべりしていたときの忘れられないエピソードもある。
わたしが先生に向かって、「大人になって、歳をとるって、どんな感じ?」って尋ねたことがあった。
先生は「20歳になったら、22歳とか23歳とか、目上の人がいるし、25歳になったらなったらで、まだ目上の人がいるし、ずっと自分は若いって気持ちでいられるよ〜」
とわかるようなわからないようなことを、のんびりとおっしゃった。
でもその会話が妙に心に残っていて、折に触れて「歳上の人間がいる限り、自分は若い」と発想することができた。面白いものである。
サリーを着たいという人に簡単に着付けをしたり、サリーの説明をしたり、実際に手に触れてもらったりし、楽しいひとときである。
大人数で話す機会を得られたのは貴重だが、こうしてみなの顔が見渡せ、直接に反応が得られるスケールでのレクチャーもまた意義深いのではなかろうかと思われた。
校門の前での記念撮影。左から同窓会会長、篠崎先生、そして右端が森永校長。
いただいた花束の芍薬(ピオニー)があまりにも美しくてうれしい。大好きな花の一つ。
夜は天神まで、友人らと夕食に出かけた。
さすがにサリー姿では目立ちすぎるので、服は着替えた。
高校卒業以来、なんら接点がなく20年余りが過ぎた。
この年齢になり、遠い過去と再会する事実には、さまざまな意味合いが込められているように思う。
29日には、多くの同窓生が集まってくれての宴会が待っている。
25年ものの再会が続出である。本当に怖い。いや、楽しみだ。