クールグ旅に出発する前、夫がガイドブックを目にしながら、「バイラクーペ (Bylakuppe) に立ち寄ろう」と言った。「チベット寺院があるんだよ」ともいう。
夫はここ数カ月、ダライ・ラマに関する書籍を読んでいたこともあり、ガイドブックにあったチベット寺院の情報を見逃さなかったようだ。
本来は、仏教徒であるわたし自身も、チベット寺院の存在に少なからず関心があったので、それでは最終日、オレンジ・カウンティからの帰路に立ち寄ろうということにしていたのだった。
オレンジ・カウンティから車で1時間足らず。道中は、コーヒー農園や田畑の風景が広がっている。と、夫がある看板を見つけて車を停めた。
ITCが農民に対して行っているサポート。農家にコンピュータとインターネット環境を提供し、彼らに直接、農作物の取引をさせるというシステムが、このコーヒーの産地でも行われているらしい。
この画期的なシステムの構築により、それまで中間業者の取り分が多く、農民に渡る現金が少なすぎたのを、是正することが可能になったとのこと。
■ITC/ Agri Business Division
この件については、NHKスペシャル『インドの衝撃2』で、非常に綿密な取材がなされていた。ITCをして、「農村に格安でインターネットを巡らし、農家と直接取引するビジネスを始めるインドの巨大IT企業」と紹介されている。
詳しくは、過去の記録(↓)を参照されたい。
■NHKスペシャル『インドの衝撃』を観て思うことたっぷり。
さて、バイラクーペの集落に入るや否や、法衣に身を包んだチベット僧らの姿がそこここで見られるようになる。
チベット寺院がなぜここにあるのか、なぜ多くのチベット人がここに住んでいるのか、まったく下調べをしていなかったわたしは、この状況に違和感を覚えて、夫に尋ねる。
聞けばここは、亡命してきたチベット人たちが「数万人」も暮らしているというのだ。もっとも、カルナータカ州では、このバイラクーペだけでなく、ランスール、ムングット、コレガルといった土地にも、チベット人の居住区があるという。
以下、「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」のウェブサイトにある情報をもとに、概要を簡単にまとめてみた。
1949年、中国の人民解放軍はチベットに侵攻、全国土を占領しはじめる。1959年、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命。その後、約8万人のチベット人がインド、ネパール、ブータンへ亡命し定住する。インド政府は、チベット亡命者のために、インド北部とインド南部カルナタカ州の数カ所を提供した。
ダライ・ラマ14世は、インド北部ヒマチャル・プラデシュ州のダラムサラに仮宮殿を置き、チベット亡命政権を樹立。また、カルナタカ州の数カ所で大規模なチベット人難民入植地が開かれ、1970年代にはガンデン寺、セラ寺、デプン寺というチベット仏教の三大僧院が再建された。
中国支配下のチベット本土では、宗教活動が著しく制約されている。仏教を本格的に学んだり修行できる環境ではないため、現在でも毎年千人を超える僧侶や尼僧、出家を目指す若者たちが、ヒマラヤを越え、インドの亡命チベット人社会へ殺到している。インドで生まれた者を含め、合計13万人以上のチベット人がインドに暮らしている。
※詳しい内容は、以下のサイトを参照されたい。
バイラクーペは、南インド最大、ダラムサラに次ぐ規模のチベット人居住区だとのこと。居住者の人数も資料によってまちまちで、1万5000人というものもあれば、4万人というものもある。
いずれにしても、年々、その人口が増えていることにはかわりないようだ。1960年代に、インド政府から提供されたこの土地は、当時未開墾だったという。
周辺に村落はあったのだろうが、土地の開墾はチベットから訪れた彼らが自分たちの手で行わねばならなかったといい、いかにたいへんな作業であったことだろうかがしのばれる。
人々を取りまとめ、寺院を建立し、暮らしの環境を整え、更なる移民を受け入れる。故国から遠く離れた南インドのカルナータカ州の、鬱蒼とした緑が広がる場所で。
まず訪れたのは、バイラクーペの中でも最も規模が大きいとされる通称「ゴールデン・テンプル」へ。正式名称はThe Namdroling Nyingmapa Monasteryというこの寺院は、世界最大のチベット仏教教育機関でもあるという。
観光客も自由に出入りできるので、早速中へ入ってみることにした。入り口で靴を脱ぎ、預けて、素足で館内へ。
随所に装飾が施されているものの、建築物そのものは、体育館のような雰囲気で簡素だが、その祭壇の、三体の仏像のきらびやかさ、存在感に圧倒される。また、壁面に飾られている絵画にも目を奪われる。
伽藍には、何列もの敷物が施されており、修行僧らの教典やガンダー(五鈷鈴)、チャイのためであろうカップなどが、そのままに並べられている。
目が覚めるような紺碧に浮かぶ天上界の神々。その壁画を背景に鎮座する、黄金色の仏像。
先ほどまで身を置いていたはずの、コーヒー農園やジャングルが遠く、まるで別世界に放り出されたかのような気分だ。
観光客らの喧噪も遠く、何かを祈らずにはいられないような清澄さに満ちている。
わたしにとって、2004年は、死別の年だった。4月には友人の小畑澄子さんが、5月には父が、6月には祖母が他界した。今年はその3人の、七回忌である。
3人の七回忌を、ここで静かに祈らせてもらった。
ちなみに小畑澄子さんはクリスチャンだったが、それはそれとして、彼女は寛大に受け止めてくれるだろう。
やがて、伽藍に銅鑼の音が響き渡り、入り口から一斉に、若い僧らが入場し始めた。その人数たるや、たいへんなもので、一気に空気が薄くなる感じだ。
観光客が外に出される様子もないので、隅の方の床に座り、彼らの読経の様子を眺める。わからない言葉の連なりが、単調な音楽のようにあたりに満ちるのを、茫然としながら聞き入る。
それとも、チベットから亡命してきたのだろうか。
いつか故国の土を踏めることを信じているのだろうか。
それとも、生涯をこの、隣国とはいえ異国の、
不自由な世界で過ごすのだろうか。
こんなにも、明らかで、鮮やかで、力強く、確固たる「チベット」という国の文化を、宗教を、本国で受け継ぐことができないとは、どういうことなのだろう。
それでも、こうして、他国に生き延びる道が用意されているということは、幸運なことなのだろうか。
インドとチベットの間の取り決めや、この居住区における法的なルールなどについては、調べてみなければわからない。しかし、周辺村落には当然、インド人たちが暮らし、このバイラクーペにも、インド人とチベット人が混在している。
なんの諍いもなく、平和に共存しているばかりだとは思えないのだが、しかし目に見る限りでは、不思議な調和を見せている。
僧侶たちの読経の様子を、インド人の観光客が眺めている様子は、なにやら違和感があり、不思議な様子だ。
入場料などを取られることもなかったので、わたしと夫、それぞれに、お布施をさせていただいて、伽藍をあとにしたのだった。
それにしても、だ。少なからず、情報の窓口を広げ、インドに暮らしているにも関わらず、自分が住んでいる州の、こんなに明らかなことさえも知らなかったことにも、少なからずの衝撃だ。
インド。住んでも住んでも、よくわからない。住めば住むほど、「わからなさ」が明らかになる。
ゴールデン・テンプルの敷地内にある小さな書店に立ち寄り、夫が数冊の本を買った。なぜか「竹取物語」もあった。かぐや姫。これまた、神秘的な日本最古の物語である。
なよたけのかぐや姫。月。不死の山。富士山……。
生まれ出づる以前からの、遺伝子の中に刻み込まれたノスタルジアが、沸々と。
ゴールデン・テンプルの向かいにある、小さな商店街のような場所をふらりと歩く。中国で着ていたら、多分逮捕されかねないTシャツなども売られている。
さて、そろそろお昼時。衝撃を受けても、お腹はすくものである。チベットといえば「モモ」(水餃子風)である。本屋のお兄さんの勧めで、小さな食堂へ赴き、モモを一皿注文する。
が、あまりおいしくない。
別の店で、別の人にお勧めの店を聞き、再び気を取り直して赴く。野菜モモと豚肉モモ、2種類を頼む。が、あまりおいしくない。おいしくないどころか、むしろまずい。
二人とも無口になり、チャイを飲み干し、店を出た。
ちなみに、この日のモモによる不完全燃焼がわたしの心に火をつけ、数日前、餃子を大量に作って食べたのだった。その様子はキレイなブログに記しておいた。→ひたすら手作り餃子と豊かな水菓子。(←Click!)
さて、不完全燃焼なランチのあと、そろそろバンガロールへ戻ろうと車に乗り込めば、夫がもう一つの寺院を訪れたいという。
わたしはもう、ゴールデン・テンプルで気持ちがいっぱいいっぱいだったのだが、彼が「どうしても見ておきたい」と主張するので、同意した。
見晴らしのよい、広大の丘の上にたつこの寺院。先ほどとは打って変わり、観光客は誰もいない。がらんとした空き地に車を停め、歩く。
先ほどの寺院よりも小規模ながら、太陽光が差し込み、明るく清澄な空気が流れているこの寺院。小さな子どもの修行僧が、ここで学んでいるようだ。
わたしたちも、再び隅の方に座り、彼らの勉強の様子を拝見させてもらう。
ほどなくして、「給食係」の少年たちが入ってきた。チャイと、数枚の食パン、そして果物。子どもたちは本当に行儀よく、静かに、黙々と食べ始めるのだった。
彼らが食事を始めたので、わたしたちはおいとましたのだが、それにしてもまた、諸々が胸に迫る様子であった。
さて、車に乗り込み、バンガロールへの長いドライヴが始まる。束の間訪れた、このチベット人の居住区での数時間は、今ここで簡単に言葉で総括できない、諸々の思いを与えてくれたのだった。
バンガロール市街に入る直前に、夜の渋滞に巻き込まれることを見込むと、家につくのは9時ごろになるだろう。
従っては、途中で軽く食事をしていこう。ということになり、またしても! 夫の要望により、行きと同じ店へ。「ティファニーで夕食を」である。
今回もヴァダと、そしてプレーンドサを注文。プレーンの、三角帽子のような形がかわいらしい。ちなみにティファニーはここ数年のうちに2店舗を増やし、行きに訪れた古い店の隣に、新店舗を開店していた。
今回はその新店舗に行ったのだが、メニューも料金ももちろん同じであった。
インドで長距離ドライヴをすると、必ず一度は遭遇する事故現場。本当に、哀しいかな、必ず一度は。なのである。これは、トラックが横転している様子。
荷台にココナツの実が積まれているのが確認された。中央分離帯に乗り上げてひっくり返ったらしく、多分居眠り運転であろう。運転席とは反対側にひっくりかえっているので、運転手は怪我も少なかったのではなかろうか。
ともあれ、インドのトラックは荷台が「むきだし」の場合が多いのだが、少なくともこのトラックはカヴァーがあり、ココナツが周辺に散乱しなかっただけ、幸いだったといえるだろう。
今回もまた、予想通り、市街に入る前で大渋滞。メトロの工事もまた渋滞に拍車をかけているようで、なかなか車は動かず、家に到着したのは9時少し前。バイラクーペを出たのが午後3時だから、やはり6時間かかった計算だ。
ともあれ、今回の旅。訪れた土地は一カ所だったが、しかし、異なる場所を見たことで、旅の濃度が増した気がする。
まだまだ、知らない場所が多すぎるインド。まさに、「点」ばかりで「面」を見ていないわたしたち。これからも、少しずつ、小さな旅を重ねて行きたいものだと思う。
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