貧困層子女への英語教育を支援する慈善団体、OBLF (One Billion Literates Foundation)が、年に一度主催している式典に参席するため、今日は夫と、バンガロール南部郊外のラクシュミサガラにある公立学校 (Government School) へと赴いた。
わたしが、OBLFの創始者であるアナミカと出会ったのは、2012年2月。ミューズ・クリエイションを始める数カ月前のことだ。アッサム出身の彼女は米国ボストンの大学を卒業後、現地でソフトウエア・エンジニアリングの仕事をしていたが、2010年、夫と二人の息子とともにバンガロールへ移住していた。彼女は貧困層の子どもらに英語やコンピュータ教育の支援をしたいとの思いから、同団体を創設。複数の学校で教鞭をとるべく、当時は自ら車を運転して、東奔西走していた。
インド教育事情の問題点のひとつに、公立学校の質の低さが挙げられる。無論これは州によって事情が異なり、機能している州もあるようだが、ここカルナタカ州の公立学校は、未だに環境が整っているとは言い難い。ゆえに、たとえ貧困層であれ、有料の私立学校を選ぶ家庭も少なくない。さもなくば、まともな教育が受けられないからだ。
アナミカは、一から学校を作るより、すでにある公立学校の校舎を利用し、そこに集う子どもたちに、特別枠の授業を行うことを思いついた。その当初のアイデアは、現在の運営にも受け継がれている。
ミューズ・クリエイションを創設した直後、初めてメンバーが揃って訪問したのは、OBLFが活動している公立学校の一つであった。以来、毎年、ミューズ・チャリティバザールには出店をしてもらうなど、久しく交流が続いている。
アナミカは、5、6年前に再び米国に戻り、現在は一家でボストンに暮らしているが、年に何度か、バンガロールに戻ってきている。アナミカの渡米を機に、彼女の役割を引き継いでいるのがルビー。2014年には、我が夫アルヴィンドもまた、OBLFの運営に関わり始めた。夫が、アスペン・インスティテュートというグローバル組織に属した当初、活動の一環として、社会貢献のプログラムを遂行する必要があったことから、わたしがOBLFを紹介したのだ。現在、OBLFは、貧困層の子どもらの「英語教育」を重視すべく、教師の育成やカリキュラムの整備など、実践的な活動を行っている。
ルビーは非常にアクティヴにOBLFの運営に関わっており、多くの子どもたちが、その恩恵を受けている。我が夫もまた、ファンドレイジング(資金調達)に大きく貢献している。彼が個人的に交流のある銀行大手や教育機関大手と交渉し、CSR(企業の社会的責任)予算枠から、OBLFへの寄付金を募っている次第。
彼は自分が関わっていることを、詳らかに公言することはなく、しかし定期的に行われている役員会議には参加しているし、年に一度の、この式典にも、ほぼ毎年参加している。妻としては、さりげなく、しかし確実に、誇らしい。
わたしはといえば、今回が3年ぶり、2度目の参加。会場は毎年同じ公立学校の校庭だが、今年は校舎にインドの偉人の絵が施されるなど、周囲の環境が以前よりも整っていた。
インド国憲法の草案者であり、晩年にはカースト制度の理不尽から脱却すべく、大勢のダリット(不可触民)とともに仏教に改宗したアンベードカル博士。インドの国歌を作詞、詩集『ギタンジャリ』でノーベル文学賞も受賞した著名な詩人、思想家、ラビンドラナート・タゴール。カルナタカ州出身の哲学者であり政治家、詩人でもあったというBasavannaの肖像もある。実は、わたしは今日初めて、彼のことを知った。彼が誰かわからず、ドライヴァーのアンソニーに尋ねたところ、彼も名前を思い出せないというので、写真をWhatsAppで息子のアルウィンに送ってもらい、彼に教えてもらった次第。
アンソニーの長男は、一昨年、一族で訪れていたキリスト教聖地での水難事故により18歳で他界するという非業の死を遂げた。以降、次男は懸命に勉強をし、実は先日、バンガロールで最も優秀なセント・ジョセフカレッジに、極めて上位の成績で入学したばかりだ。彼ら一家のことについても、記したいことは多々ある。アルウィンには、無理をせず、プレッシャーを感じすぎることなく、のびのびと生きてほしいと願うばかりだ。
ところで今日は、子どもたちがコーラスや演劇を披露してくれたあと、成績上位者への表彰が行われた。すべての会話は英語で行われるのだが、3年前に比べると、子どもたちの雰囲気、態度が、自信に満ち、堂々としていることに驚いた。特に女子たちの輝きが目立った。演劇のテーマもユーモアにあふれていて、会場には笑いが溢れた。わずか3年の間にも、この国の子どもたちの趨勢が変化していることを肌身に感じる。今日もまた、思うところ多々あり。
同団体の詳細は『バンガロール・ガイドブック』の慈善団体紹介のページに記している。西日本新聞に寄稿した記事も転載しているので、ぜひご覧いただきたい。