先日観た映画『スラムドッグ・ミリオネア』の感想を書こうと思っていたのだが、なにをどう書けばいいのやら、わからないな、と今日も街を歩きながら、思う。
あの映画は、ハッピーエンドだった。
スラムで生まれ育った兄と弟が、宗教間の暴動で母親を亡くし、ストリートチルドレンとなってのちも、タフに生き延びていく。
マフィアの手に渡った初恋の女の子のことを思い続けて、やがて青年になった弟ジャマルは、有名なクイズ番組に出ることで、彼女に自分の存在をアピールしようとする。
偶然にも質問は、自分が生き延びる中で得た知識の中から答えられるものばかりで、どんどんと勝ち進んでいった。
無学の、スラムの野良犬に、答えがわかるはずはない。そうみなされた彼は、初日の番組終了後、警察に送られて拷問と尋問を受ける。
しかし、取調官は、ジャマルがいかに答えを知り得たかのエピソードを、ひとつひとつを聞き出した結果、彼を無実と判断する。そのエピソードこそが、この映画を彩るストーリーとなっている。
無事に釈放されて翌日、再び番組に登場したジャマルは、最後まで正解を貫き、大金を手にする。熱狂する観衆。紆余曲折を経て、マフィアから逃げ延びて来た初恋の彼女と再会を果たし、ハッピーエンドに終わる……。
とまあ、以上が大雑把なあらすじである。
この映画は、世界中で、たいそうな評価を得ている。一方、インドでは、大きく賛否両論、わかれている。
映画の中でもヒーロー役として「イメージのみ」出演している、インド映画界の重鎮、アミタブ・バッチャンも、しかしこの映画にはネガティヴなコメントを寄せている。
わたしには、賛否両論の、どちらの意見もが、よくわかる。映画というエンターテインメントとして楽しむには申し分ない。
映画はハッピーエンドで終わる。
しかし、現実は終わらない。延々と続いている。
ムンバイの人口の、実に5割以上が、スラムに暮らしている。スラムによって、その程度の差はあれど、映画のなかで観られるスラムの様子は、多かれ少なかれ、「現在の現実」の様子だ。
先日の "mint" 紙で、監督であるダニー・ボイルのインタヴュー記事を読んだ。撮影にあたって、出演者選びが「悪夢のように大変だった」とあった。
特に、幼少期、少年期、そして青年期を演じる3人の主要人物、計9人のうち、特に幼少期の人選が難航したらしい。
芸能関係のエージェントなどを通して、あるいは親に連れてこられた子供たちを大勢インタヴューしたが、どうしても初恋相手の少女ラティカと、ジャマルの兄であるサリムの幼少期を演じるべく適材を見つけられなかった。
結局、監督らはあの撮影の舞台となったジュフ地区のスラムに入り込み、そこで見つけたのだと言う。それは、ムンバイ上空から空港に着陸する寸前に広がる、広大なスラムである。一部、崖っぷちなスラムでもある。下の写真が、それだ。
つまり、幼少期のラティカとサリムを演じた二人は、実際に、このスラムにどこかに住んでいた二人なのだ。
映画の中の二人が、あまりにも、あまりにも、スラムに住んでいる子の所作のままの二人であったことに実は驚かされていた。特に、ラティカ。
雨に打たれながら、車に向かって歩く彼女の姿はもう、本当に、スラムの少女そのままで、言葉がなかった。
道理で、である。それにしても、その事実だけで、十分に、なにやら、心が痛む。なにがどうしてなのか、うまく言えないのだが。
あの二人はこれから、どのような人生を進んでいくのだろう。
青年期のジャマルとラティカを演じた俳優らは、今やあちこちのメディアを賑わすセレブリティである。一方の、スラム出自のあの幼い二人は、今、どうしているのだろう。
あの映画のシーンは、一昔前のムンバイではなく、今もそのまま、そこにある。
そこで人々は、生活をしている。これまでも幾度となく、スラムについては記して来た。
学校へ行けないばかりか、働かされる子供たちも多い。マフィアに管理されたストリートチルドレンがいるのも事実だ。
バンガロールのストリートチルドレンについては、過去にも記したが、このような現状はバンガロールだけでなく、インドのあらゆる場所で、見られることである。
■バンガロールに生きるストリートチルドレン(←文字をクリック)
先進諸国では考えられない現実がここにはあって、だから映画はとても衝撃的で、センセーショナルに見えるだろう。でも、最後はハッピーエンドに終わってよかったと、観る人は、取り敢えずは思うだろう。
確かに映画が終わったとき、目頭が熱くなった。とても心に残る映画だとも思った。しかし、映画が終わっても、ここに暮らす人たちにとっては、何も終わってはいない。
映画館を出た後も、ストーリーは映画から現実にバトンタッチするように、続いているのだ。
毎日毎日、スラムを眺めながら、そこに住む人々とかかわり合いながら、わたしたちは暮らしている。
メイドのジャヤも、アイロン屋の配達少年も、アパートメントのセキュリティガードたちも、近所の商店の兄さんらも、このあたりをうろうろとしている、大勢の人たちが、スラムに住んでいる。
「インドの富裕層は、貧富の差について、スラムについて、どう考えているのか」
との問いもあった。それは人それぞれである、としか、わたしには答えられない。わたしの知る限りにおいて、慈善活動に積極的な富裕層は、少なくない。いや、多いと思う。
インドの財閥や企業、外資系企業も、積極的に企業の社会的責任(CSR: Corporate Social Responsibility)について取り組んでいるところは多い。
たとえば日本に比べれば、その弱者や貧者を救おうとする意識は、問題に直面していることもあり、遥かに高いと思う。
ただ、なにもかもが、追いついていないようにみえる。もっともっと体系的に、抜本的に、科学的に、社会の構造を変革させる手段を講じなければ、「焼け石に水」のようにみえる。
わたし個人にしても、毎度のことながら、なにをどうしていいのか、わからない。ただ、お金を渡してすむ話ではないことはわかっている。それでも、何もしないよりは、いいとも思う。
焼け石に、たった一滴の水でもいいから、わたしはわたしにできることを、とも思う。物乞いをする子供に1パックのビスケットが、どれほどの救いになるのかわからない。それでも、日々、自分にできることを、やろうとは心がけている。
「富は等しく分配されるべきだ」
「金持ちは、金の使い方を考えるべきだ」
「貧しい人々の暮らし助けてやれ」
そういう声を、あちこちで耳にする。そういう言葉を、口にするのはたやすい。いかにも正義に聞こえる。しかし、わたしは一概に、そうとは思わない。
資本主義社会の世の中に生きて来て、自分たちなりに精一杯努力して、自分たちなりに掴んで来たものを、自分たちのために使っている人たちを、誰が責められようか。
何もないところから、しのぎを削って、懸命にのし上がって来た人もいる。
確かに、先祖代々の財を受け継いでいる人もあろう。しかし、そういう人たちにはそういう人たちの、さまざまな軋轢や苦悩やらも、あるのである。
だから、誰かに何かを強要することは、多分誰にもできない。だれかに何かを強要する前に、まずは「自分が動くこと」であると、わたしは思う。
多分、「先ず隗より始めよ」である。どんなにささやかなことであっても。
つい先日のバンガロールの道路で。見るからに貧しい土木作業人らが、トラックの荷台に揺られていた。
そのトラックの助手席に座る、やはり貧しげな青年が、しかし車の窓辺に寄ってくる物乞いに、小銭を渡していた。この国では、十分に貧しい人たちが、より貧しい人たちに、施している。
そんな姿を認めたとき、正体不明の感情がこみ上げてくる。泣けてくる。
「私欲の心」や「慈悲の心」や、あらゆる思いが混沌として、わたし自身がまだまだまだまだ迷いの過程にある。だから、いちいち困惑させられるのだ。
わが家のすぐそばの、そびえ立つワールドトレードセンターの傍らの、貧と富の住まいを分つ、一本の道を歩く。カラスが舞い飛ぶ道を歩く。
スラムへ近づくに連れて、人のものとも、犬のものともつかぬ糞が、そこここに転げ落ちている。その傍らで、野菜を売り、果物を売り、ハエたかる魚を売っている。
しかしそこは、毎日が「縁日」のような賑わいで、人々は、活気に溢れて、生きている。
着古されたお下がりの、大きな服をだっぽりと着て、裸足の少女らは、快活に笑い、異邦人の手にカメラを見て、笑いながら駆け寄ってくる。
カメラのモニターを覗き込み、自分たちの姿を認め、満面の笑顔で「サンキュー!」と言って立ち去る彼女ら。
同じ国の、同じ場所で、著しく異なる生活の有様。「平均」を語れない。「平均所得」とか、「平均寿命」とか、「平均的な暮らし」とか。
「平均値」を出すことの無意味。
過去の『片隅の風景』から、スラムのことを、いくつか再び、ここに転載する。
今宵もまた、街は光を失い、
喧噪だけを残して、
樹々の梢も、家屋の輪郭も、人々の影も、
深く闇に溶けている。
裸電球照らす、陰翳の軒先にノスタルジア。
線路沿いの、馬小屋の、スラムのバラックのあたり。
裸足の少年も、片目の男も、乾涸びた老人も、
深く闇に溶けている。
小さな教会の、その十字架だけが、
茫漠の闇に浮かぶ。
あらたかな、神の力で。
いや、あきらかに、自家発電装置の力で。
あふれている街。
汚れた家に生まれ、
生まれて間もなく、
汚れてしまった赤ん坊は、
着るものも着ず、
汚れたままの肌のまま、
汚れたままの子供に育ち、
利発で鋭い瞳。
憐れみを乞う鋭い瞳。
不快のなんたるかを知らず、
不快そのものが日常で、
汚れたままに思春期で、
汚れたままに恋をして、
土に眠り、
泥に戯れ、
太陽の熱残るアスファルトに頬を寄せ、
地面の温もりに親しく、
汚れたままで伴侶を得、
汚れたままで子を産んで、
汚れた子供を抱きかかえ、
汚れた手をして米を乞い、
汚れた家で朝が来て、
汚れた家で夜を迎え、
ぼさぼさの、子供の髪の、
ぼろぼろの、子供の肌の、
延々と、路肩に続く、
延々と、路肩に続く、
ぼろぼろのぼろぼろのバラックから、
裸電球の灯火がこぼれる。
傍らを走り抜ける。
ベンツさえ走る。
ベントレーさえ走る。
延々と、路肩に続く、
ぼろぼろのぼろぼろのバラックで、
今日もまた、赤ん坊が生まれる。
汚れるばかりの生涯の、
煤けるばかりの人生の、
今日もまた、赤ん坊が生まれる。