RCサクセションのファンだったわけでもなく、忌野清志郎の歌をよく知るわけでもないのに、彼が他界したとのニュースを聴いて、動揺した。
彼の経歴に目を通した。通夜のニュースに『ぼくの好きな先生』のモデルとなった先生の存在を知った。『ぼくの好きな先生』の歌詞を探して読んだ。
昭和40年代の、50年代の、学校の校舎の、廊下のきしみ、教室のざわめき、日ざしの傾き、給食の残り香、遠く耳鳴りの先生の声、体育の授業の笛の音、風に揺れるポプラの葉……それはもう鮮やかに蘇って、呆然とした。
素朴に力強いものの力。
長い週末はしかし、瞬く間に過ぎ行き、夫は日曜の夜、ムンバイへと戻っていった。まるで「出征する兵士」ぐらいの勢いで、別れを惜しみつつ、車に乗り込む。その癖、ひとりになればケロリとしている。そういう男である。
わたしはといえば、夫を見送りしのち、一人でワインを飲みつつ、久しぶりにインターネットで日本のテレビ番組などを見つつ、至福のひとときだ。
『アイシテル〜海容〜』という番組に、かなり衝撃を受ける。ドラマのキャッチコピーは、「このドラマを全ての母に捧げる」。テーマは「家族愛」とのこと。
小学校5年生の男の子が、2年生の男の子を殺害するという事件を通して、加害者家族と被害者家族の様子が描かれている。ごく稀なケースとはいえ、ずいぶんと考えさせられるドラマだ。
わたしたちには子供がいない。
36歳で結婚して、37歳で「そろそろ子どもを」と思い(すでに思い立つのが遅いのだが)、しかし38歳になっても妊娠しなかった。そしてあるとき、夫婦そろって不妊治療の診療所へ赴いた。
結論から言えば、わたしが自然に妊娠する確率はゼロであり、体外受精 (IVF)でも最も高度な治療である顕微授精(卵細胞質内精子注入法:ICSI)でしか妊娠する可能性はないと言われた。
しかし、たとえその治療を受けたとしても、わたしたちの場合、妊娠する確率は20%未満だという。その後、夫婦で、診療所が主催する顕微授精に関する講習会を受けた。
受けている間中、(だめだ、これはわたしにはできない)との思いが渦巻いた。何に対しても比較的積極的に行動するわたしだが、もちろんダメなことはたくさんある。他の人たちにできることでも、わたしにはできない。
一緒に講習を受けた他の4組のカップルは、講習後、「顕微授精の治療に進みます」の同意書にサインをし、次のステップに進んだ。
あれから5年の歳月が流れ、こうして少し具体的に書いても問題ないだろうという心境である。あの経験を通して、実に多くのことを学んだ。そのとき学んだことは、とても貴重なことであり、誰かに伝えたいことでもある。
それはまた、別の機会に譲るとして。
ともあれそれは、父や小畑さんが亡くなる数カ月前のことで、「命」についてを、いやというほど考えた時期でもあった。
子どものころは、自分が大人になり、結婚して、子どもを2人ぐらい産んで、4人家族として暮らすというイメージを、あたりまえのものとして思い描いていた。
しかし、その当たり前のことが、実は簡単ではないのだということを、40歳を前にして、思い知らされた。
あのときの選択を、後悔していない。今、あのころに戻れたとしても、同じ選択をするだろう。
ただ、予想していなかったことが、40歳を過ぎたころから起こるようになった。
ときどき子どもを産む夢を見るようになったのだ。妊娠している夢。出産の後、子どもを抱きしめる夢……。夢の中の子どもに対する愛おしさは、それが夢の中であれリアルで、現実の世界で感じたことのない感情である。
夢から覚めて、しばし呆然とするような、それはリアリティである。
夢の中だけではない。以前は子どもに対して特に関心はなかったのに、街で赤ちゃんを見ると、思わず触りたくなってしまう。よその子どもを抱かせてもらいたいと思う。かわいいと思う。
遅れて来た母性だな、と我がことながら、苦笑する。
産んでも産まなくても、女性の身体には多かれ少なかれの母性があって、それは感情でコントロールできるものではなく、歴然と存在するのだということを、身を以て感じている。
米国時代、周辺には養子をもらっている人がたくさんいた。特にワシントンDCには本当に多かった。それについても考えたが、しかし話は先に進めなかった。
インドに移り住んで、路傍で、まさに次から次へと生まれている赤ん坊を見るにつけ、これはいったいどういうことなのだろう、と思ったことは一度や二度ではない。
こんな話題は、さりげなく書くようなことでもなく、きちんと腰を据えて取り組むべきテーマであり、中途半端に小出しにしてはならぬと思っていたが、ドラマを見て、今日はなんだか、書かずにはいられなかった。
生まれ来る子供たちについて。
また時を改めて、書きたいテーマである。
この週末、先週からの続きで、インド家庭料理をいくつか作った。ヨーグルト風味のマトンカレー、そしてトマトベースのチキンカレーなど。
このごろは我ながら、アレンジが上達した気がする。ヨーグルト風味のマトンカレーは、スパイスの調合を日本のカレールー的な風味に仕上げ、圧力鍋でしっかりと煮込んだ。マトンは柔らかく、日本米ともよく合い、ご飯が進んだ。
土曜日は、久しぶりに義姉スジャータと義兄ラグヴァンを招いての夕食。しばしば顔を合わせているようで、しかし4人で我が家に集うのは今年に入って初めだ。
わたしはチキンカレーとマッシュドポテトを作り、プレシラにはカリフラワーのソテーとパラック・パニール(ホウレンソウとカッテージチーズのカレー)を用意してもらう。
スジャータはギリシャ風のトマトサラダと、マンゴータルトを作って来てくれた。
いつものことながら、よきひとときを過ごす。
上の大きな写真のことを。岡本太郎著の、『宇宙を翔ぶ眼』を読み返す。彼の表現力の巧みさ。芸術の「爆発ぶり」とはまた異なった風の、その文章の整然とした感じ。
第一章 匂いと彩りのインド
その章ばかりを、これまで幾度も、読み返している。
1971年に、彼が初めてインドを訪れたときの記録である。
インドには「時代」はない。太古と現代の間に挟まれて、平気で浮き漂っている世界だ。
40年近くたとうとする今ですら、そのことばは当てはまっている。
いろいろと書きたいことは募るが、今日はこの辺にしておこう。