米国を離れてからというもの、それでも半年もしくは1年に一度、訪れていたマンハッタン。今回は5カ月ぶり。急に決まった旅とはいえ、ちょうどいい頃合いだったような気がする。
出発前は確かに慌ただしかったものの、振り返ってみれば、それはいつものことである。
午前2時の便に乗るべく、ムンバイ空港に深夜到着した。ムンバイ国際空港は、ここ1年のうちに少しずつ改装工事を進めながら進化している。一気にでき上がらず、工事中でも開港していたところがインドらしさである。
去年の末、利用した時には、ターミナルの随所で工事の砂塵が舞い飛んでいて、心底辟易していたが、今回は免税店の品揃えも充実。カフェやレストランもきれいにオープンしていて(インドにしては)非常にいい感じだった。
今回の旅はエコノミークラスにつき、ラウンジを使えず、従ってはカフェでコーヒーを飲むことにした。人々の往来が見える席を選んで、コーヒーを飲みつつぼんやりしていたら、前方から見覚えのある長身の人物がギターケースを抱えて歩いてくる。
先日バンガロールで再会したジェイだ。ギターケースを抱えているだけで、より格好よく見えるから、小道具とは恐ろしい。
3人で再会を喜び合い、しばし語り合う。あのあとムンバイの実家で一人暮らしの母親と数日過ごした彼は、これからオースチンに帰るのだとか。次のインド来訪は12月だとのこと。また会えるといいねと言いながら、別れたのだった。
さて、深夜2時に発ったルフトハンザ機は、約8時間後、早朝のフランクフルトに到着した。インドに移住する前からも、インドを訪れる時には、その接続のよさからしばしばルフトハンザを利用していたわたしたち。
フランクフルトではソーセージを食べよう、そしてビールを飲もう、というのが、長旅の途中の小さな楽しみであった。たとえそれが早朝であっても。
だからこそ、機内での朝食を食べずに外に出たのだが……。異なるターミナルだったこともあり、お目当てのレストランがない。あるのはカフェのみ。がっかりだ。
思い返せば、フランクフルト空港でソーセージを食べることができたのは3度しかない。たいてい便の遅れで時間がなかったりで、別のターミナルだったりで、無念のまま通過したものである。
そんなわけで、仕方なくクロワッサンとカフェラテで軽い朝食とする。身体には、むしろこの方がよいのだろう。
それにしても、昨今物価が高くなったとはいえ、まだまだ先進諸国に比べると安いインドから外に出ると、物価の尺度に感覚を合わせるのに時間がかかる。
特にドルに比べて相当に強くなっているユーロ。なにをとっても高く見えて、いや。カフェラテ1杯が6ドルもするなんて。と、いちいち財布のヒモが固くなる心境だ。
その癖、空港のショップで見つけたシロクマのキーホルダーに目が釘付けになり、つい衝動買い。ふわふわの手触りとそのつぶらな瞳がかわいすぎ!!
この間の「おいどんは、ごわす」に比べたらもう、比べ物にならないかわいさだ。長旅に疲労した心を癒してくれるかのようである。
白いから汚れやすそうだけど、洗えばいいのだわ、などと思いながら、買ったのだった。
さて、フランクフルトからニューヨークへ向かう便は、インドからの便よりも快適。
選んでおいた席がビジネスクラスに近い最前列だったこともあり、前の座席からシートが倒れ込んでこないのもよい。
更に感激したのが、機内食で、ソーセージが出たこと!!
機内食ながらも、これがかなりおいしくて、とてもうれしかった。
食事のとき以外は、アルヴィンドは泥のように眠っていた。わたしも彼よりは少ない時間だが、寝た。
寝すぎるとむしろ時差ボケになる場合もあるとの話も聞くが、わたしたちはいつも、寝られるだけ寝るのだ。
そして約8時間後に、ニューヨークに到着したのだった。
さすがに長旅のあとは頭がぼんやりとするが、しかし出発日の午後、アーユルヴェーダのスパ(診療所)で、アビヤンガ(オイルマッサージ)とピッチリ(オイルバス)を施してもらったので、体調はさほど悪くない。
全身に温かいオイルをたらたらと垂らしながらの極楽ピッチリは、腰痛にも非常によく、長旅のあとでも腰が痛まないのだ。このマッサージのおかげで、そもそも激しい腰痛持ちだったわたしは、ずいぶんと助けられている。
しばしば利用しているところのセントラルパークの南、カーネギーホールの斜め前にあるホテルにチェックインしたあと、シャワーを浴びたり荷解きをしたり、アルヴィンドはアポイントメントを入れたりして数時間を過ごし、夕方、街へ出た。
二人とも、初日の街歩きは、たいてい無口である。
それぞれに、街を眺めながら、あれこれに思いを巡らす。
セントラルパークを歩き、露出度の高い女性たちのファッションに目を慣らす。
散歩しているイヌたちのかわいらしさを目で追う。
そうこうしているうちにも、猛烈にお腹がすいてくる。
ニューヨークは、特にブロードウェイやリンカーンセンター界隈のシアターディストリクトは、観劇前の夕食であるところの「プレシアター・ディナー」を供する店が多く、つまりは6時ごろからオープンしている。
8時ごろにならないと夕食が食べられないインドとは異なるのだ。
そんなわけで、早々に夕食をとろうと、公園を離れる。
リンカーンセンターはあちこちが改築中で、工事現場の塀が張り巡らされていた。2年近く工事中だったアリス・タリー・ホールが、新規オープンしていた。
左上の写真は、リンカーンセンター斜向い、ブロードウェイ沿いの大型書店バーンズ&ノーブル。わたしたちが出会った場所。
右上の写真、右端の高層アパートメントビルディングが、そもそもアルヴィンドが住んでいた場所であり、その後、わたしも住んでいた場所。
最初の1年ほどは1ベッドルームに同棲していたが、彼がフィラデルフィアのMBAに進むことになってからは、一人で暮らすべくステュディオに移った。
ミューズ・パブリッシングを起業したばかりで、就労ヴィザの関係上、自分にも給料を払わねばならず、さらには、たとえステュディオ(1ルーム)とはいえ2,000ドルの家賃を払わなければならず、創業初期は相当な「自転車操業的状況」だった。
『街の灯』に記しているエピソードに通じる、さまざまな出来事が蘇ってくる。ここに来ると、いつも自分の来し方を反芻してしまう。
ニューヨークに暮らし始めたばかりの、語学学生だったあの夏。初めて、アルヴィンドに連れられて、彼の住むあのアパートメントビルディングの屋上(52階)から眺めたマンハッタンの夜景を、目にした瞬間の衝撃が蘇る。
ハドソン川を渡る夜風を受けながら、見下ろす摩天楼。セントラルパーク、遥か彼方に自由の女神、ワールドトレードセンター……。
この上なく、全身の血が騒いだ。ここに住みたい! ここで、自分を試したい! と、まだ英語さえろくに話せなかったにも関わらず、そう思った。
夕飯は、昔しばしば利用していた、近所のイタリアン、プタネスカへ。店の雰囲気は少し変わっていて、メニューもかなり変わっていたけれど、カジュアルにおいしい、イタリアンである。
ワインの酔いがたちまち回って、思い巡ること多く、静かな夕餉であった。