20代のころのわたしは、東京で、海外旅行誌の編集者兼ライターをやっていた。海外取材が多かったにも関わらず、英語はうまく話せなかった。30歳のとき、一念発起して、ニューヨークで1年間の語学留学を決めた。初めてマンハッタンに降り立ったとき、ストリートから湧き上がる目に見えない磁力に引き付けられるような気がした。目に見えぬエネルギーを与えられた。
数カ月も暮らすうちに、もう東京へは戻れないと思った。日系の出版社で、現地採用として働きながら、ニューヨークで独立するための準備をした。自分の会社、Muse Publishing, Inc.を起業し、その会社から就労ヴィザ (H1B)を発給、つまり自給自足した。そして1998年から、自営業者として働き始めた。独立の記念に、タイムズスクエアのお土産ショップで買った自由の女神。セントラルパークを見下ろし、摩天楼を見渡す窓際に、お守りのように、置いた。
ひたすらに、何百枚も、営業用の会社案内をプリントし、製本し、1社でも、2社でもいい、仕事をくれるクライアントを探して、東奔西走した。やがて大きな仕事も入り、仕事は軌道に乗り始めた。社費出版の日本語フリーペーパー『muse new york』も創刊した。困難辛苦の日々ながらも、自分がマンハッタンで自立して生きていることが、うれしかった。誇らしくもあった。
渡米した1996年の七夕に出会っていた我々夫婦は、2001年7月、ニューデリーで結婚。10月に、マンハッタンで披露宴パーティを開く予定だった。しかし、あの朝、夫が暮らしていたワシントンD.C.郊外の家の窓から、燃え盛る国防総省の炎を見、テレビの画面で、崩れ落ちるワールドトレードセンターを見た時から、世界は変わった。途轍もない衝撃と、底知れぬ不安。あらゆる予定が白紙になった。当時、ニューヨークとワシントンDC、遠距離結婚だった自分たちのライフスタイルを見直した。夫と一緒に暮らそうと決めた。今まで、自分のことを優先して来た人生から、二人で育む人生を選んだ。
ニューヨークを離れることは、言葉にし難い悲しみだった。あのときのわたしは、かつて経験したことがないほど、弱気になっていた。ワールドトレードセンターの跡地から立ち上る煙は、風となってマンハッタンを包み、焦げ臭い匂いは、アッパーウエストサイドの我が家にまでも、届いた。それは、ワールドトレードセンターと、そこで絶命した多くの人たちが、燃える匂いだった。
大小の、悲喜交々の、出来事の延長線上に、今、インドで暮らすことを選んだわたしたちがいる。20年前の今日の気持ちを、苦しみと共に、今でも鮮やかに思い出す。生きているからには、一生懸命、生きないと。米国同時多発テロ、そしてムンバイ同時多発テロを身近に経験した者としては、そのことを、よりいっそう、強く思う。私利私欲や、名声に囚われることの無意味。自分だけが得られる幸福など、この世に存在しない。
マンハッタンは、わたしに、勇気と、巡り合わせと、希望を与えてくれた、かけがえのない街だ。悲惨な出来事が続く世界で、しっかりと、ぶれないように。生きているからには、一生懸命、生きる。
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以下、当時の記録をまとめたブログに目を通していただければ幸いだ。23年前の今日から1カ月以上にわたっての出来事が、克明に記録されている。グラウンドゼロを訪れたときのことも。🙏
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