当初は、「母の白内障手術に伴う1カ月の福岡滞在」だったはずが、日々、故郷再発見や大小の偶然が重なって、かつてない心の旅を楽しんでいる。
わたしの母は9人兄弟、父は4人兄弟。わたしには、いとこが20人いたのだが、ほとんどが離れて暮らしていることもあり、昔から疎遠だ。
そんななか、母の妹の長男であるタカシくん(9歳下)とは、彼が生まれたときから近所に住んでいて、弟のツトム君含め、幼いころから一緒に遊んでいた(遊んでやっていた😉)こともあり、今でも繋がりがある。
去年の一時帰国時にも、奥さんのトモちゃんと一緒に遊びにきてくれた。今回は、わたし自身が落ち着かない状況だったことから、連絡はしていなかった。
すると、昨日、Instagramを見たタカシくんから「姉ちゃんおかえり」とメッセージが届いた。わたしが先日訪れた「地場産くるめ」から、タカシ君の家は徒歩3分だという。なんてこったい! 彼らが久留米に住んでいることをすっかり忘れていた。超ご近所まで足を伸ばしていたとは!
すぐに電話をしたら、今、福岡市内へ来る途中だという。先日、伯母の家の庭に咲くミモザの花をここに載せた。これまで一人暮らしをしていた91歳になる伯母が、老人ホームに移るというので、連絡をくれたがゆえ、十数年ぶりに会いに行ったのだ。伯母は母の兄の妻。
長男のヤスジくん(1つ上)は、わたしが小学生のころ、隣に住んでいたことから、小学生のころには毎日のように一緒に遊んでいた。
タカシくん曰く、引越しや片付けのために、ヤスジくんが東京から来ているので、その手伝いに行くのだという。つまり我が家の近所まで来るわけで、わたしも顔を出すよと伝えたのだった。
ヤスジくんとは、東京で働いていた時代に数回会ったきり。その後、2004年に父の葬儀に来てくれた際、軽く言葉を交わしただけだった。ゆえに、21年ぶりの再会である。
片付けがひと段落した二人は、我が家へ遊びに来てくれた。
「やっちゃん、久しぶり! 元気〜!!!」
還暦を迎えたやっちゃん(ヤスジくんのことをこう呼んでいた)は、昔の面影を残したまま、タカシくんとともに現れた。魂は瞬時に、家の前の道路でキャッチボールをしていた小学生のころに戻る。その間の50数年間をすっ飛ばして、あのころが蘇る。
やはり人生は、ロールケーキだ。
彼の子どもが30歳、25歳になっていることや、奥さんのことなどを簡単にお聞きするも、あとは現在のこと、伯母のことなどを語り合う。会わなかった数十年間の出来事などは、すべて幻のように。
何をやってきて、何をしていようが、今、この瞬間、(それなりに)元気で語り合えることが全てなのだと、痛感する。
整理せねばと思っている写真の山を引っ張り出して、皆で見る。ヤスジくん、タカシくんの写真も次々に出てくる。そして、3歳で他界したヤスジくんの兄、ケイタくんの写真も……。
実は先日、ケイタくんの写真を数枚発見していて、これは伯母ちゃんかヤスジくんに渡したいと思っていたのだ。
ケイタくんの死の背景にはまた、時代の影が映っている。何もかもが、幻のように、しかし確実に、人は生まれて、生きて、死ぬ。そして全ては、この瞬間。今。
2年前に、大切な記憶を書いている。加筆修正したものを、下部に転載する。長いけれど、日本の高度経済成長の時代を映す、意義深い記録なので敢えて載せる。
タカシくんがユウイチ兄ちゃんにも連絡を取り、LINEのグループを作ってくれたので、昨夜はみなで写真や言葉を交換して、半世紀前を偲んだ。
生きているうちに、みなで福岡で会おうと約束した。
タカシくん、連絡をくれてありがとう!
昭和の写真も、何枚か載せている。
タカシくんが生まれるまえ、やっちゃんと、わたし、そしてわたしの妹を抱くタカシくんの母(我が母の妹)の写真が、なんともいえず、いい。「吉隈のおばあちゃん」、即ち当時の嘉穂郡桂川町や碓井町の界隈。背後に見えるのは、懐かしきボタ山。
今はなき、1970年代の香椎花園での写真もまた、たまらぬ。ジーンズが流行しはじめた時代のファッション。わたしはサロペット(オーバーオール)姿、父も母もデニムの上下でコーデしている。「西部警察」風味を漂わす我が父😊
1965年(昭和40年)、東京オリンピックが開催された翌年に生まれたわたしは、不便で汚くて貧しかった日本の片鱗を体験した、最後の世代かもしれない。
なにしろ福岡市東区の自宅でさえ、お風呂にガスが通ったのは1968年あたり。3歳のころだったと思う。それまでは、薪で風呂を焚いていた。近所の山(三の丸団地ができる前の山)に、祖母と薪を拾いに行ったことも覚えている。砂利道が舗装され、海が埋め立てられ、山が造成され、団地が次々に生まれるのを目撃してきた。
翻って筑豊。
石炭の採掘の過程で積み上げられた「ボタ山」には、やがて緑が芽生えた。そんなボタ山で遊んだり、廃屋となった銭湯を探検したり、祖母が住む長屋で花火をしたり、虫かごを携えてセミ取りをしたり、赤とんぼやほおずきを愛でたり、界隈を流れる川で精霊流しをしたり……。
夏ごとに廃れ、徐々に再生する炭鉱町の情景が、わたしの原風景の一つとなっている。
前述の「2歳の記憶」というのは、伯父夫婦やユウイチ兄ちゃんをはじめとする親戚らが、炭鉱の町を離れて愛知県の豊田市へ引っ越した夜のことだ。当時、多くの炭鉱関係者が、仕事を求めて故郷を離れた。愛知県豊田市はまた、その目的地のひとつだったと思う。
あれは、夏の夜だった。どの駅だったのだろうか。薄暗く小さなターミナルの売店の裸電球が、店先の虫取り網と虫かごを照らしている。わたしは片手にチョコボールを持っていた。それをひとつ、ふたつと食べながら、大荷物を抱えた親類たちを眺めている。
やがて、ホームにSL(蒸気機関車)が轟音とともに入ってきた。伯父や伯母、従兄弟たちが乗り込む。ほどなくしてSLは、凄まじい蒸気を上げ、悲鳴のような汽笛を上げながら、ゆっくりと動き出す。
その列車を、穏やかで静かだった祖父が、泣きながら手を掲げ、追いかけ走った……。
夜の駅。チョコボール。SL。取り乱す祖父……。忘れ得ぬ記憶。祖父はその翌年あたりだったか、60代で静かに他界した。
わたしが生まれた熊本県荒尾市もまた、三池炭鉱の町だった。伯父の訃報に自分の出自を再認識する朝だった。
🙏我が原点。炭鉱跡、ボタ山、線香花火……。日本の近代産業を支えた筑豊炭田を巡る、個人的な体験。(2023/10/10)
https://museindia.typepad.jp/2023/2023/10/fk01.html
昨日の朝、愛知県に暮らす2歳上の従兄弟のユウイチ兄ちゃんから電話あった。ユウイチ兄ちゃんと最後に会ったのは、30年以上前のこと。子ども時代は、祖母が暮らす嘉穂郡で、夏休みに会っていた。わたしが愛知まで遊びに行ったこともある。
「おそらく……」と予感した通り、それは伯父、つまりユウイチ兄ちゃんの父親であり、母の兄の訃報だった。88歳の大往生。歳月は流れど、やさしかったユウイチ兄ちゃんは、「Youtube、見たよ」「元気そうやね」と、笑いながら、昔のままの温もりある声で、妹に接するかのように話しかけてくれる。お悔やみを伝え、「いつかご家族で、インドにも遊びに来てね」と言って、電話を切った。
その刹那、わたしの最も古い記憶の一つ、2歳の夏の夜の思い出が蘇った。わたしは幼少期の記憶と心情が鮮明に残っている方だが、この記憶は格別に鮮やかだ。
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我が両親の故郷は、かつて炭鉱で栄えた福岡の筑豊地方。飯塚や嘉穂郡界隈だ。室町時代に遡る筑豊の炭鉱の歴史。明治時代には「殖産興業」を背景に八幡製鐵所が創業したことで、財閥や大手企業が相次いで出資。筑豊の炭鉱は隆盛を極めた。しかし繁栄の裏側には、過酷で劣悪、危険な労働環境に喘ぐ坑夫やその家族の物語もある。
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1963年(昭和38年)、「三井三池三川炭鉱爆発」という戦後最悪の炭鉱事故が起こった。その2年後の1965年6月1日、わたしが生まれる約3カ月前に、三井山野炭鉱で大規模なガス爆発事故が発生し、237名の死者が出た。この事故の日か翌日に、運悪く、当時まだ3歳だったわたしの従兄弟(ケイタくん)が、バイク事故で重傷を負った。彼は病院に運び込まれるも、そこは炭鉱事故の被害者で溢れかえっており……。
彼は手当を受けることなく、自宅に返されて、6月3日に、息を引き取った。
小学生のころ、彼の弟にあたる従兄弟(やっちゃん)から、古い写真を数枚、見せられた。家の中で探し物をしていたときに見つけたというモノクロの写真。血の滲む包帯でぐるぐる巻きにされた幼い子ども。抱きかかえる祖母の絶望的な表情。当時は、痛ましくも恐怖心が心を覆ったが、それもまた、炭鉱の悲劇のひとつであった。
戦後の高度経済成長に伴い、次々に炭鉱は閉山。上記の事故なども閉山に拍車をかけた。筑豊は、長屋、校舎、銭湯などの廃屋をひとつひとつ残しながら、静かに廃れていった。
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