「ピンポーン!」
……
「ピンポーン!」
「ピンポーン!」
「ピンポーン!」
……
「ピンポーン!」
一日に、幾度鳴るのかドアのベル。
インドで「家庭生活」を送っていると、やたらと人がやって来る。
ゴミ収集の掃除人。アイロンかけ屋に郵便屋。牛乳配達に使用人。雑事抱えて管理人。はいはい次はエレクトリシャン。庭師は日曜でしょ今日は何のご用? ドライヴァーに夫の弁当託して、水道管の具合が悪いわ配管工事人を呼んで。はいはいプロパンガスですね。また、アイロン屋? もう仕上がったのね。
一日家にいるときは、仕事に集中したいと思うのだが、しばしば破られる静寂で、一日に幾度となく、階段を駆け下り、駆け上り。
やはり24時間態勢な使用人なくしては、たいへんではありませんか? と思われそうだが、一日4時間のプレシラちゃんで、今は満足している。仕事が相変わらず、どんなにスローモーションでも、いい。ぼちぼちやってくれれば、いい。
住み込み使用人が不在となって、精神衛生は著しく向上し、この1年半、自分がどれほど無理をしていたのかということがよくわかるここ1、2カ月。旧家政夫モハンの解雇の理由を書こう書こうと思いながら、何もかもが、遠い過去となり、次の新しきに視点は流れる。
ともあれ、こうした「雑事系接客」の他、ソーシャルライフが充実しているインド。家族や親戚との集まり、友人知人との会合が、米国時代に比べて遥かに多い。人との関わりが、非常に多い。
仕事のときは別として、わたしは根本的に「出不精」であり、特段「社交的ではなく」、比較的「内省的な人間」であると、誰が信じなくても自分が信じていたのだが、どうやらその根本的な自身の性格が「どんなだったっけ?」と怪しくなるほど、インド社交生活の渦に巻き込まれている。
放っておくと、何日でも誰とも会わずに、一人で過ごしていた米国時代だった。今でも、一人で過ごすことも好きだし、一人で過ごすことが大切だとも思っているのだが、インド移住以来、夫以外の人と誰ともしゃべらなかった日など、一日もない。濃い。
そんなこんなの、夕暮れ時。またしても「ピンポーン!」は、帰宅した夫かと、無防備にドアを開ければご近所さん。3階に住むNRI(Non Resident Indian)のカップルの妻、ナヴィディトゥだ。
なんでも今夜、彼女の夫のアルヴィンド(マイハニーではない)が、出張でパリに発ち、彼女はダージリンに帰郷するため、車の鍵を預かっておいてほしいとのこと。そこから始まる世間話。
玄関先で世間話はなんだからと、家に招き入れる。
インドでは、基本的に友人やご近所さんたちを気軽に家へ招き入れる。「玄関先で立ち話」というのは、わたしたちの暮らす社会ではあまりない。
ナヴィディトゥはムンバイ生まれ。アルヴィンド(マイハニーではない)と大学時代に出会った後、二人とも米国に渡り、カリフォルニア在住中に結婚し、その後パリに3年暮らした後、1年半前にバンガロールに来たという。
彼女の夫であるところのアルヴィンドは、フランスの自動車メーカーに勤めていて、彼の仕事の関係でまた数カ月後にはパリに戻るらしい。
購入したこのアパートメントをどうするか、といったことにはじめ、彼女自身が経営しているITソフトウエア会社(拠点はサンフランシスコとバンガロール)の運営のこと、米国永住権の保持のことなどで、頭の痛い出来事が山積している模様だ。
ちなみに彼女、わたしたちがこの物件を購入した直後に、アルヴィンド(マイハニー)にわざわざ電話でアパートメントの開発会社に対する問題や不満を告げて来た、あの女性である。開発会社を告訴中という、あの彼女である。あれ以来、まだまだトラブルは続いているらしいものの、今では概ね、アパートメントを気に入っているらしい。
夕食前、かれこれ1時間以上もおしゃべりをし、マイハニーなアルヴィンドが帰宅してようやく、彼女も立ち去って行ったのだが、中でも印象的だった会話を一部抜粋。
「わたしはムンバイで生まれ育って、家庭もリベラルだったから、この南インドの封建的な気質が、ちょっと合わないの。ここ、気候はいいんだけどね〜。サリーを着てる人も多いし、ほら、結婚した女性は額にビンディー付けたり、バングルを腕にたくさんつけてたりするでしょ。あれってなんだか、女性が縛られてる象徴って気がするのよね。それに、あのシマシマのネックレスみたいなのも」
「マンガースートラのこと? あれって結婚の証なんでしょ?」
「そうらしいけど、わたしは持ってないわよ」
「でも、たまにはサリー、着るんでしょ?」
「わたし? 全然! サリーもサルワールカミーズも、一着も持ってないわよ。嫌いなの」
「ええっ?! 持ってないの?! わたし、20着以上は持ってるわよ。インド人妻としては必携かな、なんて思ってさ〜」
「ええっ?! そんなに持ってるの? 冗談でしょ〜! わたし、サリーの着方、知らないわよ!」
「ちょっと待ってよ。あなた大学時代までムンバイだったんでしょ?」
「そうだけど。うちは家族が自由に育ててくれたから、わたしも妹も、サリーなんて、着ないわよ。母はたまに着てるけど。わたしの友達なんかもみんなそうだった。サリーを着たのは、自分の結婚式のときだけだもん」
「そうなの〜?! たとえば、人の結婚式のときなんか、ムンバイでだって、みんな派手なサリーを着てるじゃない。スパンコールとかピカピカさせてさあ。じゃあ、特別なイヴェントのときなんか、何着てるの?」
「ほら、あれ。名前、覚えてないんだけど、上下が分かれてるドレス。あれが楽だから着るの」
「レンガー・チョーリーのこと?」
「そうそう。それよそれ」
「うそ〜。信じられない。まあ、うちのアルヴィンドも、わたしがサリーを着たり、ビンディを付けたりするの嫌うから、わからないでもないけどね」
「ほら、日本だって、もう若い人は誰も着物なんて、着てないでしょ。あれと同じ。サリーも同じ道をたどるわね、間違いなく」
日本の着物を自分で着ることができないわたしとしては、返す言葉がないのであるが、なんともはや、驚きである。インドのサリーは、不滅な民族衣装だと勝手に思っているが、多分、富裕層、上流社会から順番に、消え去っていくのかもしれない。
わたしの周りにいる親しいインド人女性で、普段サリーを着ている人は誰もいない。多分、わたしが一番、よく着用している。みな、ジーンズやパンツ姿の洋装が中心だ。
わたしは、サリーの、その布の美しさに感銘を受けているのだが、起業家でありアーティストでもある彼女にとって、その布地の美しさは、封建的な社会の象徴でしかないのだろうか。
いろいろな考え方が、あるものである。
(※上の写真は、ハンガーに吊るされた、我がサリーの「ブラウス部分」である)