雨上がりの、日曜の朝。
金曜の夜に出張から戻って来たばかりの夫はしかし、1泊を自宅で過ごしただけで、今度は香港へ。夕べのシンガポール航空便で旅立った。ちょうど今しがた、香港に到着したとのメールが届いたところだ。
外では、庭師一家が、庭の手入れをしてくれている。彼らとは月契約で、週に4回、来てもらうようにしている。問題はと言えば、彼らは地元カンナダ語しか話さないこと。メイドのプレシラちゃんが通訳をしてくれている。あとはゼスチャーでコミュニケーションを図る。
庭師のおじさんは、山下清とバカボン(パパではない)を足して2で割ったようなタイプの男だ。その妻は美しく知的な感じで、まるでバカボンママのようである。
そしていつも一緒にやってくる少年。彼は眼鏡をかけ、やはり知的な風貌をしている。はじめちゃんのようである。しかし、彼が二人の子どもなのかどうかは、定かではない。たまに別の青年もやってくるから、ひょっとすると家族ではなく親戚縁者かもしれぬ。赤の他人かもしれぬ。
そんなことはさておき、週に4回も、しかも毎度2、3人が来て庭の掃除をする必要がいったいあるのか、と思われそうだが、仕事はある。植物は日々ぐんぐんと育ち、雑草も伸びる。近隣からの落ち葉が散らかり、やはり頻繁に手を入れないと荒れた感じになる。
ともあれ、この緑のおかげで、住まう我々の心身が潤い、この街の緑がささやかながらも守られ、加えて庭師一家にも仕事を依頼することができ、それなりに麗しい循環だと感じている。
インドに暮らし始めて以来、「お金の流れ」について考えさせられることが多い。最近のわたしは、貧富の差が著しいこの国において、低所得者層の人々に、雇用機会を与えることがいかに大切かを実感している。
物価はめまぐるしく上昇し、しかし彼らの賃金は据え置きもしくは微増。「月給」をもらえない「その日ぐらし」の人々が、どれだけ多いことか。
庭師のおじさんは、つい最近、このアパートメントのデヴェロッパーとの契約が切れて、月給を得られる職を失い、「フリーランス状態」となってしまっていた。
我々は、かつて彼らを週に一度、日曜日だけ雇っていた。そしてその都度、支払っていた。しかし職を失ったのを機に、彼らから月給制で雇ってくれと頼まれた。条件を相談した結果、彼らを「月給払い」で雇うことにしたのだった。
我が家では、庭師の他、メイドにも、日曜を除く毎日、来てもらっている。ドライヴァーもいる。アイロンも毎日のように、ドビー(洗濯&アイロン屋)に出している。
他者に頼んでいることで、自分でやれることは、ある。しかし自分でやれることを、敢えて人に任せるべきだと、最近は思うようになった。
人に任せられることは、「お金を払って」やってもらい、その分、自分は自由になった時間で仕事をし、収入を得る。わたしがちょっとした努力で得ることができる金額は、ともすれば低所得者層の何家族をも、長きに亘って扶養できる金額に相当する。
わたしがたいそうな売り上げをたてている、という話ではなく、彼らが著しく困窮している、という話である。
たとえばスーパーマーケットでも、わたしは重い荷物を決して自分では持たない。誰かに車まで運んでくれるよう頼む。そしてささやかでも、チップを払う。わたしは腰を痛めずにすむし、誰かはそのチップでチャイの1、2杯が飲める。
仕事をせず、ただ物乞いする人にお金を渡したことはない。が、少しでも、働いている人には、その報酬を渡したいと思う。自分が報酬をもらって仕事をしていると同様に。
この件については、「お金の問題」として、しっかり掘り下げて考察したいテーマではある。
* * * * *
ところで金曜日。午後、母のお友達を招いての、ティーパーティーを開いたのだった。この3カ月の間、母を誘って遊びに出かけてくれた方や母が絵をお教えした方々。
近所のベーカリー、Just Bakeでクッキー(意外においしい)などを買い求め、それから、エビやツナ缶、卵やキュウリなどを利用しての、簡単なオープンサンドなどを用意した。
今回は小人数で、ほんの一品ではあったけれど、こうして小さなものをちょこちょこと作るのは、結構楽しいものである。
思えば2年前。ワシントンDCを離れるときのティーパーティーは、「おつまみ主流」で簡単ながらも、賑やかなテーブルを演出できた。今見ると、盛りつけがかなり今ひとつであるが、さておき、いずれもおいしかった。
それよりなにより、タルトやスコーンをどしどしと焼けた巨大なオーヴンが懐かしい。
このような料理は、手早く準備できるし、冷める心配もない。お酒のおつまみにも好適だ。インドで入手できる食材で用意できる、簡単かつおいしいティーパーティーメニューを考えてみるのも楽しいかもしれない。
さて、おいしいお茶を飲みながら、今日も瞬く間に、午後のひとときが過ぎて行く。
時に、母を筆頭とする「大人世代な方々」との、会話の齟齬にくらくらとしながらも。
「あれがそれで、どれがこうで、そうそう、そうなのよね〜」
といった、母を中心として形成されているところの正体不明な会話世界に、わたしは足を踏み込めない。だって、何の話をしているんだか、日本語にも関わらず、さっぱりわからない場合が多すぎるんですもの。
主語がない、などという次元の問題ではない。会話がまったく、噛み合っていないことさえ、少なくないのである。しかしながら、違和感なく、時が流れることの不思議。
いちいち突っ込んでしまい、「口うるさい娘」と胡散臭がられてしまいがち。わたしも、少し大人になって聞き流せばいいのであるが、まだまだ「青い」のである。
日頃、英語で会話をしているときには、集中しなければ言葉が素通りしてしまうのだが、日本語の場合は、聞きたくなくても、まるでスポンジが水を吸収するが如くに入ってくる。
たとえば久しぶりに日本に帰国したときなど、町中の看板の文字がすべて目に飛び込んで来て、読みたくなくても勝手に目が読もうとしてしまい、情報過多で頭ががんがんするのと、似ている。
聞き流せよ、と自分でも思うのだが、いちいち引っかかっていけない。
これは年齢の問題ではなく、「日本語だからこそ、なおさら」な問題ではないかと、最近思う。この「言葉と会話に関する問題」もまた、改めてじっくりと記したい課題である。
だから中盤は、しらふではおられず、スパークリングワインなどを開け、カクテルパーティーと化す。ま、それは口実で、中盤からついついアルコールを出してしまうのは、我が習性である。
それにしても、母は異国インドでも、お友達に出会い、遊んでいただき、いい時間を持てたことは、本当に幸運である。
メイドのプリシラちゃんは、「マダム、もうすぐお帰りになるのですね」と、泣いてるし。
今日も、ゲストの方々、目頭を熱くして、母を送り出してくれているし。
娘としては、もう、帰っていただかないと!! な状況なのですが。
母は、また近いうちに再襲撃、いや再訪問することでありましょう。
夕べ、アルヴィンドが出発前の夕食の席で。母が涙ながらに、アルヴィンドにお礼を告げていた。アルヴィンドもまた、1週間、愛妻のもとを離れる寂しさで、ほんの少しブルーだったところに、より一層センチメンタルになっている。
アルヴィンド。
「また来年、会いましょうね。来年。」
と言っていた。
そこには、「来年なら、また来てくれてもいいけど、今年はもう、いいぞ」という意味がこめられていると思ったのは、わたしの思い過ごしだろうか。