久しぶりに、折り紙ヴォランティアで聾学校へと赴く。生徒たちの面々は変わらず、みなとても元気そうだ。それにしても、相変わらず子供だかおっさんだかわからんな、という子供たちの顔ぶれである。
生徒の構成は、多分10歳から15歳くらいだと思われるが、とてもそうは見えない。
右写真の二人なんて、私服を着せたら「父子?」に見えそうだもの。
そんな失敬かつどうでもよい話はさておき、折り紙である。
今日は、ヴォランティアの参加者が少なかったのに加え、難易度の高い「鶴」だったこともあり、かなり手を焼いた。
最初のころのように、聞こえないとわかっていて、ついつい声を張り上げてしまう「無駄な行為」をしなくなったものの、声で伝えられないとなると、身振り手振りが重要である。
みなの注意を集めるのも全身を使わねばならず、決して簡単ではない。
すぐに諦めて放り出す子。
人のお節介を焼く子。
注意深くわたしの折る手を見ている子。
一人一人の個性が、わずかな時間の間にもにじみだしてくる。
なるだけ彼らに折らせたいので、いつものように折り紙を押さえつつ、彼らの手をとって教えるのだが、なにしろ体格はおっさんな子供たちである。
インド人はなかなかに体臭が強い上、熱中しだすと更に汗ばんで来て、かなり嗅覚に堪える。
が、そんなことで窒息している場合ではない。7人ほどの子供たちの手の動きを追いながら、なかなかの重労働だ。次第にわたしの手はべたべたに、子供たちの折り紙は、汗でしなしなになっていく。
ところで今日は、耳が聞こえないだけでなく、手足が不自由な子の熱意に感心した。
思うように動かない指先を、しかし懸命に神経を集中させて、動かそうとしている。一辺が15センチの折り紙は、彼にとってあまりにも小さすぎる。
それはわたしが一辺2センチ程度の紙で折るよりも、難しいことなのかもしれないと思う。
にもかかわらず、折り紙の端と端をきれいにそろえようとしている意気込みが感じられて、ぐっときた。
きちんと折らない子の大半は、「端と端をきれいにそろえる」ことの重要性を理解しておらず、また、きちんと折らねばという意識が希薄だから、時間をかけてゆっくりやればできるはずなのに、やらずに適当に折り曲げる。
しかし、彼には「端と端をきれいにそろえたい」という強い意識があり、完成図が脳裏にあるにも関わらず、手の動きが伴わなくて、四苦八苦しているのだということが、見ていてよくわかった。
時間がかかっても、こちらが手を貸しすぎずにいたい。特に、最後に羽根を広げるときの、あの小さな感動や、裏側から空気を吹き込むときの小さな達成感を、味わってほしいと思う。
羽根の端と端を持たせて、「広げてご覧」と目配せすると、彼はそっと広げて、とてもうれしそうに笑う。やっぱり、出来上がる瞬間は、うれしいのである。そしてみなと同じように、裏側から空気を吹き込む。
正確に言えば、ターゲットがはずれて、空気はぜんぜん吹き込まれていないのだが、それはそれである。
ともあれ、きれいな折り紙を使うのもいいけれど、新聞紙を正方形に切ったものを使って、大きく折るところから練習させるのがいいのではないかと思った。
わたしが他の組織で教えるときには、折り紙が手元にないから、いつも新聞紙を使っている。
しかし、このヴォランティアグループは日本の女性たちで構成されていて、きれいな折り紙を調達できることから、ずっと折り紙を使用しているのだが、きれいな折り紙を毎度使用するのももったいない気がする。
新聞紙で練習をして、仕上げを折り紙で作る、という方法もあるだろう。反省会では、今後、場合によっては新聞を使ってはどうかと提案しておいた。