土曜日、久しぶりに妹と電話で話をした。兄弟姉妹というのは、たとえいくつになっても、「兄と弟」、「姉と妹」というその関係性が変わらないものだと思う。わたしもまた、妹に対しては、ふとした弾みに「説教口調」になりがちである。
「ちゃんと健康に気をつけないかんよ」
「全然、運動しよらんやろ?」
「だいたい、あなたは夜更かしし過ぎ!」
「○○さん(夫)にやさしくせな、いかんよ」
とまあこのように、大きなお世話発言も含め、「姉さん風」をびゅうびゅう吹かせるのが常である。なお、使用言語は、妹よりもむしろ流暢な「博多弁」である。なぜ? なのかはわたしにもわからん。
説教がましいコメントのあと、
「こんなことを言ってくれる人は、わたしくらいしか、おらんちゃけんね。ま、我慢して聞きなさい」
というひと言も加えられる。我ながら、恩着せがましい。
そんなことはさておき、会話の途中、「ひと月あたりの食費はいくらか」という話になった。
わたしたちの食費は、米国時代に比べて半減した。インドでは、野菜や果物、豆や小麦粉、米やパンなど、基本的な食材が安い。低所得者層が主流を占めるインドにあって、それは然るべき事実である。
肉や魚はそれなりに高いものもあるが、高いと言っても先進諸国に比べれば安い。加えて、夫婦そろっての外食は主に週末だけだし、夫のランチには弁当を用意していることもあり、外食に使うお金も米国時代に比べれば、やはりずいぶん安い。
翻って日本。良質の食品が高価であることは、昨年末の帰国時に実感した。特に果物などの高さには目を見張るばかりであった。そのことをわかっていて、姉は自慢げに言うのである。
「インドはね〜、果物が安くて、いいよ〜。パパイヤとか、激安やもん。一個50円とかで買えるとよ」
「うわ〜、うらやまし〜!」
「たとえばね、今日買ったのはね、リンゴ10個とね〜、ニンジン12本と……、ザクロ2個と、それからパイナップルとパパイヤとメロンを1個ずつ、あと、レモン何個かと、バナナ2房。これ全部でいくらと思う? 全部で350ルピーくらいやったけん、日本円で700円くらいよ、700円!」
「ひゃ〜、信じられん! インド、いいね〜。将来は、インドに住みた〜い!」
「来んね来んね。インドはいいよ〜」
こうして書いてみると、なんちゅういい加減な会話であろうか。そんなことはさておき、ここでの要点は、「いかにインドは果物が安いか」ということである。
上の写真に写っているすべてまとめて、700円くらいである。毎朝新鮮な野菜や果物のジュースをがぶ飲みできることの幸せ。インド生活の醍醐味である。
■『SLUMDOG MILLIONAIRE (スラムドッグ・ミリオネア)』を観に行った。
今週末は三連休。月曜はリパブリック・デー(共和国記念日)につき、夫も明日までバンガロールだ。
従っては日曜日の本日も、かなりのんびりとした気分であった。あらかじめインターネットで購入していたチケット引換券を携え、カニンガムロードのシグマモール内にあるシネマ・コプレックスへと向かう。
そう。先日、「見たい!」と記した、『スラムドッグ・ミリオネア』を見に行くのだ。
上映は3時45分から。アイスクリームなどを買い込み、わくわくしながら指定の上映室へ入る。ほどなくして、上映開始。ところが、ん? なにかがおかしい。ん? 言葉がわからない。え、うそ〜、この映画、ヒンディ語やん!
『スラムドッグ・ミリオネア』は、英語版とヒンディ語版とが別々に上映されるのをわたしは知っていた。タイトルもヒンディ語は『SLUMDOG CROREPATI』と異なるのだ。
にも関わらず、どうして間違えてヒンディ語のチケットを買うだろうかわたしは!
自分を責めてみるが仕方ない。夫は当然ながらヒンディ語をわかるので、理解しながら観ている。うううぅぅ。
わたしは改めて、後日一人で英語版を見に来ることにしようと開き直り、こうなったら映像に集中するのだ! とばかりに、画面に向かう。
ところでインドの映画館では、上映の途中で休憩が入る。インドの映画は3時間を超える長編が多いから、おのずと休憩が必要なのだ。それにならって、海外の映画を上映する際にも、休憩が入る。
シーンの変わり目やストーリーがひと段落したところで休憩を入れてくれればいいものを、たいていの場合、「ここで切るかよ!」というところで、唐突に、映画は中断される。なかなかに、無惨な感じだ。
さて、休憩時間に外へ出たところ、隣の上映室で『スラムドッグ』の英語版がまもなく上映開始だということがわかった。チケットの購入はモールの地下で行われているから、今すぐ買い直すのは不可能だ。
しかし、どうしても英語版を見たい。インドのシネマコンプレックスは「指定席制」だから、適当に紛れ込んで座るわけにもいかない。どうしたものだ。中に進入し、広大な室内を見回せば、上映開始を5分前に控えて、お客は埋まり始めている。
アルヴィンドに「クリミナル(犯罪者)!」と言われながらも、あとには引けない。空いている席を狙って、座った。その後、正規の客が来たので、席を間違えたふりで移動せねばならなかったが、二度目はセーフであった。
なかなかにスリリングなひとときであった。なんてことを公言していいものか。ここだけの話にしておいていただきたい。
そんなわけで、起立しての国歌斉唱に始まり、再び最初から、英語版を見始めたのだった。
ちなみに国歌とともに、スクリーンに映し出されたのは、猛吹雪のヒマラヤ。
中国との国境付近を守るインド国軍の戦士たちだ。
この国は、本当に、広いのだなあと、改めて思う。
兵士たちの姿を目にして、かなりストレートに、胸を突かれる。
映画についての感想は、また改めて記したい。昨日、映画のことを書きすぎたので、ちょっとエネルギーがない。
■ストレスと、アルツハイマーと、家族。
映画を見終えてのち、義姉スジャータと義兄ラグヴァンの家へ訪れるべく、IISのキャンパスへ。二人は昨日、デリーから戻って来たばかり。
夕食は二人が持ち帰って来た、デリー実家の料理人ケサールによるマトンカレーやデザートが用意されていた。幾度も記して来たが、ケサールの料理は格別なのだ。
今日のマトンカレーもまた、うまい! スジャータ作のダル(豆の煮込み)もおいしい! そして今が旬の赤いニンジン(京ニンジンのようなもの)をすりおろしたものを牛乳でひたすら煮込んで作るデザート、 ガジャルハルワ(写真右下)もまた格別だ。
今日はあれこれと、込み入った話も含め「家族会議的」なひとときを過ごした。普段は温厚で人当たりのいいスジャータも、やはりアルヴィンドの前では「姉さん風」を吹かせているところが愉快である。
わたしの言うことには、いちいち反論してしっかり聞かないくせに、スジャータやラグヴァンの言うことにはかなり素直に耳を傾けるマイハニー。
なにか大事な話があるときは、あらかじめスジャータに相談して、スジャータからアドヴァイスをしてもらうこともある。かなり有効な作戦である。
インド生活のよさ。それは、わたしの心情を理解してくれる夫の家族(義理の両親や義姉夫婦)が近くにいることだ。米国時代、そして現在でも、二人きりでいると、意見が対立した場合、五分五分のまま、どちらの意見を採用するべきか判断しがたい事態に陥る。
しかし、家族からの意見を仰ぐことで、互いに互いの問題点も見えてきて、再考したり、人の意見に耳を傾けるようにもなる。
インドに来る前まで、つまり30代のころまでのわたしは、「我が道を突っ走る」勢いで、来た。「家族との会話が大切」などということを、特段、意識せずに来た。しかしインドに来てからというもの、その考えはじわじわと変化している。
尤も、移住直前の米国時代から、「この男は、わたし一人の手には負えん! ていうか、負いたくない!」と思われる節が多々あり、インド家族になんとかしてもらわねばと思う事態に直面していた。
実際に移住して、こうして折に触れて家族と会い、言葉を交わすことで、仕事のこと、暮らしのこと、遊びのこと、とりとめもなく話しながら、心が浄化されることは少なくない。
先日の健康診断の際、夫がドクターと話をしているとき、「ストレス」についてこう提言されたという。
「家族と一緒に過ごしなさい。仕事でたいへんなことがあったら、早く家に帰って、家族と一緒に食事をしなさい。一日に一度で言いから、自分の気持ちを話す時間を持つことが、大切なんですよ。今の人たちは、家族との時間をどんどん持たなくなってきていますからね。ストレスもたまるんです」
<夫と顔を突き合わせることの方がストレスだわ!>
という人も中にはあるだろう。
しかしわたしには、そのドクターが言わんとするところが、よくわかる。以前、どこかの国の学会の調べで、インドにはアルツハイマーが少ない、それはターメリックをたくさん食しているからだ、というレポートを見た。
そのとき、わたしは「違うだろう」と思った。確かにターメリックは身体にいい。お肌にもいい。しかし、それが理由ではないと感じたのだ。
インドの老人にアルツハイマー疾患者が少ない理由のひとつには、家族との交流があると思われる。この国には親兄弟と共に暮らすジョイントファミリー(大家族)が多く、皆が常にコミュニケーションを取りながら生活している。
たとえばバンガロール宅のご近所さんにしても、4人家族に加えて、週に一度はどちらかの両親が遊びにきている。
ムンバイ宅のご近所さんは、1フロア4軒のうち、我々を除く3軒すべてが一族である。エレベータホールに出るたび、使用人を含め、あっちの家族、こっちの家族が、出入りしている。
いったい、誰がどこに住んでいて、誰と誰がどういう関係なのか、さっぱりわからない。それぞれに微妙に顔が似ているから、自分の顔見知りが誰なのかもわからず、常にフレンドリーに挨拶をするばかりである。
加えて、ソーシャルライフの充実、人々とのコミュニケーションの多さ。善し悪しは別にして、家族だけでなく、世間のあらゆる人々と、関わる機会が多い。
人々との関わりを通して、知らず知らずのうちに、自分の生きる道を学ぶし、影響を受けているとも思うのだ。
コミュニケーションの濃厚さは、階級差、貧富の差を超えて、インドでは普遍であると感じる。無論、最近では、中流層以上の「核家族化」も進み、先進諸国と似たような環境に変化し始めているのも事実である。
幸いわたしたち夫婦は、喧嘩も多いが、一緒に過ごす時間は長い方だと思う。毎日朝晩、共に食事をするし、休日はたいてい一緒に行動する。
そもそも彼は、食事時だけでなく、しょっちゅう仕事のことをしゃべっている。多分、本人が思うほどのストレスは、たまっていないのではなかろうかと楽観している。
薬よりも何よりも、家族や親しい友だち、身の回りの人々と、不満や愚痴ばかりを言うのではなく、なにか楽しい話をすること、それだけで、気分が紛れるというものだ。
インドのドクターは、さりげなくも、いいことをおっしゃると、思った。