写真:近所の公園の神様コーナー。
毎週末、何本かの映画を見る。今週も、見た。
ある映画の中で、子どもがクマのぬいぐるみと一緒にベッドで眠るシーンがあった。それを見た瞬間、つい、
"I miss Miko"
と言ってしまった。みいことは、バンガロール宅に置いてきているクマのぬいぐるみのことである。しかも、43年もの。ヴィンテージなクマである。
他人から見たら、単なる薄汚れたクマのぬいぐるみであるに違いないが、わたしにとっては1歳児のころからの「お友達」である。
突っ込みどころ満載の存在感、だということは客観的に理解しているが、どうか突っ込まないでほしい。それはさておき、夫が問う。
「みいこって、誰?」
「クマのぬいぐるみ。バンガロールにある、あの古いクマ」
「クマのぬいぐるみが恋しいの?」
「まあね」
それは正直なところ、どうでもよい会話であった。そもそも、取り立てて別にぬいぐるみが恋しかったわけでもないのだが、なんとなく、その映画のシーンがかわいらしい余り、口をついて出てしまったコメントだったのだ。
さて本日、日曜日。夕方、友人に会うと言って、夫は出かけて行った。ハードロックカフェ・ムンバイでカクテルタイムを過ごすらしい。
夕食前、8時過ぎに戻って来た夫。片手に紙袋を携えている。
「ミホ、ムンバイにも、クマのぬいぐるみが欲しいんでしょ?」
と言いながら、その紙袋を差し出す。
受け取り、その中身を取り出してみたならば……!
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うぉ〜!
か、かわいくねぇ〜!
お、おいどんは、ごわすな顔つきだ!
泣く子も黙る猛々しさだ!
ヘヴィメタなムードを表現しているのか?
ベッドの傍らに置けば、むしろ安眠を妨げられそうでもある。
若干、動揺しながらも、一応「ありがとう」と言う。言うには言ったが、しかし、この挑戦的なクマの表情は、どうしたもんだ。
おいどんは、ごわす。
それ以外に、言葉が出ない。
おいどんは、ごわす。
繰り返し、口にしていたところ、夫が問い返して来た。
「なに? ウドン?」
「ウドンじゃない。オイドン。こいつの名前は、ファーストネームがオイドン。ラストネームはゴワスだから」
「え〜、なにそれ? どういう意味?」
「知らん。ともかく、オイドンはゴワスなの」
と、夫がコンピュータに向かい、Googleで検索し始めた。
「ねえ、オイドン、ゴワスってカゴシマ?」
な、なんだ? oidon, gowasで、なんか出てくるわけ?
「ねえ、タカモリ・サイゴ〜? のこと?」
うぉ〜。さすがインターネット。話が早い。早すぎる。
「そうよ。西郷隆盛と言えば、おいどんはごわすなのよ。このクマ、西郷隆盛に似てるのよ。画像を検索してみ。ほらね。似てるでしょ」
西郷どんの顔を見て、無口になる夫。
「ねえ、ミホはこのぬいぐるみ、気に入らないわけ?」
頼む。聞かないでくれ。
ああ、この感覚、なんだかデジャヴ……。
で、思い出した。夫は今までにも、何度かわたしに、クマのぬいぐるみをプレゼントしてくれたのだった。
だいたい、40過ぎの妻に、クマのぬいぐるみもなかろうと思うのだが、ひょっとしてこれは、純真を装った作為的な戦略だろうかとも疑ってしまう。
昨今の「記念日続きの日々」において、クマのぬいぐるみでお茶を濁して、「プレゼント、もらってます、あげてます感覚」を植え付けているんじゃなかろうか。
ぬいぐるみよりも、妻がもっと喜ぶうれしいギフトは、インドにはたくさんあるんですけど!!
今、過去の記録/クマと夫とわたし(←文字をクリック)を読み返して、確信した。これもまた、3年前の、奇しくもちょうど今頃である。
この男と出会って13年。まだまだ、本性を見抜けずにいる。