ロンドン滞在最終日。天気予報に反して、朝から晴れ間が広がるいい天気。夫は嬉々として、クリケットのワールドカップ、インド対オーストラリア戦を見に行った。
妻は、12世紀ごろに誕生したという英国最大の食品市場、バロー(バラ)・マーケット(Borough Market)を訪れることにした。最寄りの駅は「ロンドン・ブリッジ」。ということは、ロンドン橋もおまけに見られるというわけだ。地図を見れば、夏目漱石著『倫敦塔』でもおなじみの「ロンドン塔」がある。観光に便利そうだ。
地下鉄を乗り継いで、ロンドン・ブリッジ駅へ。
♪London Bridge is falling down, falling down, falling down, London Bridge is falling down, my fair lady♪
代表的なマザーグース(英国の童謡)である『ロンドン橋落ちた』を口ずさみつつ、ご陽気に陸へ出る。しかしここから続く歌詞を思い出してみるに、暗い。
Then off to prison he must go, he must go, he must go……そして彼は、牢獄に行かねばならない……。
さて、テムズ川に沿ったそのエリアは、レンガ造りの古びた建造物が随所に見られ、味わい深い街並だ。わくわくしながら市場への道をたどり、到着したところ……本日、マーケットは休業! ガガガガ〜リン!! 日曜日が休みだったとは、下調べが甘かった!
市場でランチをとろうと楽しみにしていたのに……。もっとも市場の周辺には、いくつものレストランがあり、観光客でにぎわっているが、わたしは市場で食べたかったのだ。急激に食への衝動が萎える。
風情ある界隈をしばし散策したあと、川沿いの道を歩いてロンドン橋を目指す。ところが!! 二つの塔が建っているのがロンドン橋かと思いきや、ロンドン橋は、なんの色気もない「普通の橋」ではないか! ロンドン橋の東側に見えている向こうの橋まで足をのばせばいいだけの話しだから大したことでもないのだが、思い込みはいかんなあと思う。わたしがロンドン橋だと思っていた橋は「タワー・ブリッジ」であった。
「タワー・ブリッジ」へ向かう途中、お腹がすいたので、適当なカジュアル寿司店で寿司と枝豆を買う。年々、こうしたカジュアルな寿司が目に付くロンドン。ニューヨークにしてもそうだが、特にサーモン握りの人気は高い。欧米都市部の人々が1年に消費するサーモン刺身の平均量は、日本人のそれを大きく上回ると確信する。さらには近年の枝豆の人気っぷりといったら! わたしも枝豆が大好きだ。庭で大豆を植えて栽培しようかしらん。
食後、テムズ川のほとりを歩き、「タワー・ブリッジ」へ。このそびえ立つ塔がロンドン塔かと思いきや。橋を渡って向こう岸に立つ建築物が、ロンドン塔だというではないか! 全然、塔じゃないし。塔というよりは、「城」及び「城塞」である。
ロンドン塔のチケット購入の順番を待つ間、Wikipediaなどで予習。ガイドブックも購入して少し勉強した。
●正式名称は「女王(国王)陛下の宮殿にして要塞・ロンドン塔(Her(His) Majesty's Royal Palace and Fortress of the Tower of London)」。
●1066年にイングランドを征服したウィリアム征服王が、1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、約20年で現在のホワイト・タワーが完成。その後、リチャード1世が城壁の周囲の濠の建設を始め、ヘンリー3世が完成させた。 国王が居住する宮殿として1625年まで使われた。
●14〜19世紀にかけては造幣所や天文台も兼ね、1640年までは銀行、13世紀から1834年までは王立動物園でもあった。
●1282年からは、身分の高い政治犯を収監、処刑する監獄としても使用されはじめ、14世紀以降は、政敵や反逆者を処刑する死刑場に。
●最後の収監者は第二次世界大戦中、対英和平交渉を結ぶべくドイツから来訪し捕虜となった副総統ルドルフ・ヘス。1941年から1944年まで勾留された。
●ロンドン塔には、世界最大級のワタリガラスが一定数飼育されている。
●現在もイギリス王室が所有する宮殿であり、ビーフィーターと呼ばれる衛兵隊や、現役のイギリス陸軍近衛兵により警護されている。
●世界最大のダイヤモンド「偉大なアフリカの星」などをはじめとする宝飾品ほか、歴史的展示物を擁しており、1988年にはユネスコの世界遺産に登録された。
こういう背景を知らずしては、この塔をどう楽しんでいいのかわからない、そんな場所である。アルヴィンドは子供のころに訪れたらしいが、宝飾品の多くが「インドから持ち去られたもの」だったとのことで、何かと不本意だったらしい。そりゃそうだ。かつては世界最大とされたダイヤモンドのコヒヌール(コイヌール)もここにあるのだから。
夏目漱石の短編小説『倫敦塔』は大学時代に読んだはずだが、少しも思い出せない。あらすじを知りたく「ロンドン塔」でコーヒーを飲みながらiPhoneで検索したところ、著作権が切れた書籍の全文が公開されている青空文庫というサイトに行き着いた。便利な世の中である。
『倫敦塔』に目を通してみて、愕然とする。なんというわかりにくい文章! これはロンドン塔の事情を知らない人には、何の話だかさっぱりわからない世界。覚えていなくて当然だともいえる。一方、こうして自分が「ロンドン塔」を訪れ、状況を目にしたら、途端、小説が生々しくリアルに迫ってくる。
夏目漱石は30代のとき、文部省より英語教育法研究のため1900年から2年間、ロンドン留学を命じられた。その際に漱石が「猛烈な神経衰弱」に陥り、早期の帰国を余儀なくされたという話はよく知られるところだが、その留学時の経験をもとに書かれたのが、この『倫敦塔』である。
英国の文化、文学、気候、生活習慣、人種差別、劣等感……。彼は実際のところ、何をどう感じたのだろう。
当時は、このロンドン塔が、この界隈で最も「高層の建築物」だったという。周辺に、真に高層ビルディングが林立する120年後の今となっては、目を閉じて夢想するしか、当時の情景を思い浮かべることはできない。
ロンドン塔では、宝飾品展示の見学がハイライトであるはずだったが、それはそれは、超長蛇の列。1時間以上は待たねばならない様子だったので、諦めた。
欧州列強の国々が、植民地時代に占領地から「勝手に持ち出した」財宝のすさまじさといったら、ない。昨年訪れた大英博物館にしても然り。同じく昨年訪れたドレスデンのレジデンツ宮殿にしても然り。とてつもない財宝の海に、恭しく展示されていた、インド産の巨大なダイヤモンド「グリーン・ダイヤモンド」(41カラット)は、そこに展示されている、あらゆる宝飾品をしのいで、最も価値が高いと記されていた。
旅の最中の思うところ、載せそびれた写真などは多々あれど、綴るに尽きず、とりあえずはこの辺にしておこう。
夜はクリケット観戦を終えてホテルに戻ってきた夫と合流。インドが勝利して喜んでいたものの、インド人慣習のマナーが悪くて心外だったようだ。インド人に限らず、スポーツ観戦をする観客の中には、かなり無礼な人もいると思うのだが「ワールドカップの観戦は1試合だけで十分」だとのこと。
近所のシーフードレストランで軽く夕食をとり、今回の旅を締めくくる。夫はわたしが発つ日に、ミーティングのため、ケンブリッジへ。2泊したあと、さらにロンドンに2泊して土曜日にバンガロールに戻る。彼は1カ月の旅。今回は本当に長い旅となった。
バンガロールに戻った翌日。自宅の書棚に一冊の本を見つけた。昨年の、日本への一時帰国時に購入した本の一冊。夏目漱石を義父に持つ半藤一利の、漱石を巡るエッセイ集だ。未読だったので目を通した。正直に言うと、共感しかねる箇所が目立つ本であるが、「ロンドン塔の憂鬱」の項では、なるほどと膝を打つエピソードが散見された。読んでよかった。
英国人に対するコンプレックス云々ではない、日清、日露戦争の勝利に浮かれている日本人への懸念、警告(それは我が座右の銘「囚われちゃ駄目だ」の一節がある『三四郎』にも描かれれている)とでもいおうか。漱石の一貫した姿勢でありものの見方が、ロンドン滞在中の漱石にはあったのだという史実が残されていて、合点がいった。
この件に関しては『夢十夜』含め、漱石の著作を何冊か読み直して検証し、「現在に通じる」多くの日本人の「グローバル観」についてまとめたくなる。
今、それをやっている場合ではないが、ともあれ、備忘録としてひとこと記しておくならば。夏目漱石の先見性は、やはり、すごい。そして坂田は、彼のものの見方に、心から共感する。
そのあたりに言及されたページを、ここに掲載しておく。わたしが、若者向けセミナーで必ず紹介する『三四郎』の、三四郎と広田先生が初めて列車の中で出会ったときの、「囚われちゃ駄目だ」に連なる言葉のやりとり。その一部も、ここで紹介されている。
なお同著『漱石先生ぞな、もし』は、1992年以前に記されている。ゆえに、バブル経済崩壊後の日本について、筆者は言及していない。「失われた30年」などと呼ばれる以降の日本を知ったとしたら、より一層、120年前の夏目漱石の言葉を、「決して死語にはなっていない」どころか、「的確な予言」とさえ、感じるに違いないだろう。