気がつけば、11月も終盤。2005年11月10日、わたしたちがバンガロールに移住した日から、早くも丸8年が過ぎた。なんと濃厚で、波乱に満ちた歳月だったろう。その気候のよさのせいか、年中フル稼働でいられるこの地バンガロールにおいては、適宜、休息を挟みつつも、有意義に動き続ける日々である。
ところで先日、日本への一時帰国中、東京のクライアントで行ったセミナーのテーマは、「写真を通して見る、インドの10年」~新旧が混在する日常から~というものであった。セミナーの時間はわずか1時間余り。しかし、その準備には、当初予定していた以上のエネルギーを費やした。
それは、「ちりも積もれば山となる」の好例であった。過去のブログの写真などを遡り、発掘し始めるときりがなく、ずいぶんとまあ、こまごまと記録を残して来たものだと、我がことながら感心させられた。
移住前の旅行時からのものも含め、 ネット上に眠るインドの過去約10年の光景が次々と目を覚まし、わたしの記憶もまた刺激され、時間を要したとはいえ、作業の過程は非常に意義深いものであった。
今回の件を通して、どんなに写真を撮っていても、ネット上にアップロードしていないものは、のちのち敢えてデータから拾うことはないということも悟った。バックアップのハードディスクに、延々と眠り続けるばかりである。
今年はブログという体裁をやめ、ネット上に記録を残す頻度は激減したが、しかし、とどめておきたい光景は、なるたけそのときどきで写真を整理して載せておいたほうがよいと思わされた。従っては、今回のムンバイ滞在の写真は、敢えてたくさん載せておこうと思う。未来の自分が、今を回想をするときのためにも。
日本から帰国して数日後にも関わらず、なぜ夫の出張に便乗してわざわざムンバイへ2泊3日の小旅行に出かけたかといえば、今回の夫の滞在先が南ムンバイのタージマハル・パレス (The Taj Mahal Palace) だったからにほかならない。古くからの読者ならご記憶かもしれないが、わたしは、このホテルに対して、なぜかしら強い思い入れがあるのだ。
わたしが初めてインドの土を踏んだのは、ニューヨーク在住時の2001年7月のこと。結婚式を挙げるためにニューデリーを訪れ、その後、新婚旅行でウダイプールに足をのばした。
ムンバイを初めて訪れたのは、結婚から数年後、「ひょっとして、インドに住んでみたいかも」と思い始めたころ、2004年4月のことである。そのときは、ムンバイ、バンガロール、デリー、チェンナイを巡ったが、最初に入ったのは、忘れもしない、このムンバイであった。
空港に降り立った途端、独特の湿気を含んだ空気に包まれる。夜の街をひたすら南へと走り、たどりついたのが、このホテルだった。タクシーを降りて真っ先に目に飛び込んで来た、ホテルの向かいにあるインド門……。当時の旅の記録は、下記のブログに残している。
まだインドを知らず、100%の旅人だったわたしが、次々に襲いかかるトラブルや、カルチャーショックに見舞われつつも、「刺激に満ちあふれた」「退屈することのない、退屈できない」旅を楽しんでいる様子が伝わって来る。あれからまもなく、10年だ。
このホテルの魅力は、単にラグジュリアスなホテルであるから、ではない。このホテルが育んで来た歴史、ストーリーに、心ひかれるのである。インド彷徨 (2) の「英国統治時代の、インド人のプライド」という項目でも記しているが、ここにも改めて残しておく。
上の写真は、インドの海の玄関口、Gateway of India。ムンバイの最南端、コラバに位置するランドマークだ。1911年、英国のジョージ5世とメアリー王妃がムンバイに訪れたのを記念して建立された。
その海洋に面してどっしりと立つタージマハル・パレス。インドが英国の植民地下にあった1903年に完成した。
そのインド門の真向かいに立つのが、このホテルである。ちなみにこの写真は、2004年に撮影したもの。インド門の前からの眺めだ。左側がオールドウイング(旧館)、右側のタワーがニューウイング(新館)と呼ばれ、双方に客室がある。宿泊するなら、独特の情趣に満ちた旧館がお勧めだ。
このホテルが建てられたのは、インドが英国の植民地下にあった1903年。今から110年前のことだ。当時、インドにある高級ホテルのほとんどは、インドに在るにも関わらず、インド人は宿泊することができなかった。「インド人と犬はお断り」などとするホテルもあったという。
英国人によって翻弄されていたインドにあって、しかしビジネスで成功を治めていたインド人の実業家、タタ・グループの創始者であるジャムシェトジー・タタは、インド人が泊まれる高級ホテルの建設に着手した。当時としては最先端のエレベータや天井のファンを備え、クーポラの鉄筋はエッフェル塔と同じものが用いられているなど、建物そのものにも、さまざまなストーリーがある。
以下、Wikipediaの文章に少々手を加え、転載しておく。
タタ・グループは、インド最大の財閥であり、ペルシア一帯(現在のイラン)からインドに渡ってきたパールシー(ゾロアスター教徒)の子孫であるジャムシェトジー・タタ(1839年-1904年)が、1868年にボンベイ(ムンバイ)で設立した綿貿易会社をその始まりとする。
1870年代には綿紡績工場を建ててインド有数の民族資本家となった。彼は大きな製鉄所、世界的な教育機関、大ホテル、水力発電所をインドに建設することを夢見たが、そのうち生前に実現したのは1903年に建てられたタージマハル・ホテルのみであった。しかし彼の残した構想は、タタ・スチール、インド理科大学院(バンガロールにあるIIS)、タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレス、タタ・パワーとして結実した。
彼の富と名誉の結晶は、他のどのホテルにも劣らない歴史的なホテルとして誕生し、以来、百年以上に亘り、世界中の人々を招き入れてきた。華やかな、あるいは重要な、歴史の舞台として人々の記憶に刻まれ続けるホテル。エントランスに足を踏み入れれば、晴れ晴れと、優麗な空気に包まれる。
オールドウイングのチェックインは、上の写真、このラウンジで行われる。到着するやいなや、芳しい花の香りが漂うこのラウンジに通され、座り心地のいい椅子を勧められ、リラックスしてチェックインできることの優雅さといったらない。
これまで、幾度か泊まったが、いつもここに来ると、心底、ほっとする。大きなホテルに見えながらも、アットホームで親密なもてなしをしてくれることが、くつろいだ心持ちにさせられる理由でもあるだろう。
もっとも、あいにく、今回の滞在は、ニューウイング。夫の会社の、ニューヨーク本社はじめ各国のパートナーたちが一堂に会するアニュアル・ミーティングが開催されており、会社側がまとめて予約をとっていることから、自由はきかなかった。が、贅沢を言ってはいられない。
夫がタージのゴールドメンバーであることから、訪れるたびに部屋をアップグレードしてもらえるので、普段は、その恩恵に便乗している。以前は、日本からのクライアントとともに新館を予約していたのだが、たまたま同じタイミングでムンバイに出張に来た夫の計らいでクライアントもオールドウイングにアップグレードしてもらえたときには、本当にうれしかった。
せっかくならば、「より素敵な方」に泊まっていただき、インドのファンタスティックな一面を体験してもらいたい。ホテルが快適かどうかで、滞在の印象は大きく変わるものである。特にインドのような、一歩外に出ると混沌の渦に巻き込まれる国においては。
こちらはニューウイングのロビー。ニューウイングとて、十分にラグジュリアスではある。磨き上げられたフロアを歩くだけでも気分よく。フロントの背後の絵画は、インド現代絵画の巨匠、M・F・フセインによるもの。彼はインド人でありながら、その作品が物議を醸し、海外で亡命生活を送っていたのだが、2年前に亡くなった。
ちなみに彼はインドに住んでいたころ、このホテルをよく利用していたとのことで、館内にある老舗の靴店「Joy Shoes」の入り口には、彼の足跡がアートとして残されている。ちなみにこの靴店のサンダル類はとても履き心地がよく、夫もわたしも愛用している店だ。女性用の「スワロフスキーのクリスタルを鏤めたサンダル」は、日本人の目には、まばゆすぎるが、インド富裕層の女性たちには好評のようである。
このホテルに対する思い入れは、本来であれば、わたしよりもむしろ、わが夫のアルヴィンドの方が強く持つべきであるのかもしれない。夫が子供のころ、ロメイシュ・パパは転勤が多かったことから、学業の心配をした実母(夫が大学生のときに他界)が、姉のスジャータと彼を自分の父親に託した。
即ちアルヴィンドの祖父である。実業家であり、政界にも籍を置いていた祖父は、非常に厳格な人物で、夫と子どもたちの間を1カ月ごとに行き来して暮らしていた母親の来訪を、アルヴィンドはいつも心待ちにしていたという。
祖父がビジネスでムンバイに来るときには、このホテルのスイートルームに宿泊するのが常で、そのときには、姉と二人で喜んで同行したという。広々とした快適な部屋で、普段、家庭のテレビでは見られない、米国の映画を「カラーテレビ」観たり、プールで泳いだり、あるいは普段とは違う料理やデザート類を食べられるのが、ことのほか、楽しみだったそうだ。
超庶民の我が子供時代とはかけ離れた、優雅なお子様時代である。個性豊かなわが夫の個性が育まれた経緯を知ることは、彼の現在を理解することにも結びつき、彼のファミリーヒストリーは、興味深い。それは夫として、ではなく、あるインド人とその家族の物語として。
ニューウイングとオールドウイングを結ぶ回廊の一隅に飾られた写真。このホテルを訪れた、各国のセレブリティたちの写真が静かに展示されている。ホテルの部屋のテレビには、このホテルを案内するプロモーションヴィデオが入っており、歴史的なエピソードを説明してくれる。それもまた、非常に興味深いものだ。
エッフェル塔と同じ鉄筋が用いられているというキューポラ。この吹き抜けの回廊の独特の雰囲気には、いつも魅了される。
この上階が、オールドウイングの客室。過去の記録に別のアングルからの写真も残しているので、建築構造に興味のある方は、後に記すリンクをご覧いただければと思う。
館内を彩る花々は、奇をてらわず上品にオーソドックスに、しかし、確実な存在感を放っている。ストレートな美しさが、いい。
このホテルが完成した翌年に他界した、タタ・グループの創業者、ジャムシェトジー・タタの胸像。キューポラの下の回廊の、一番目立つ場所で、静かにたたずんでいらっしゃる。
このホテルにお世話になったのは、宿泊客として、だけではない。わたしたちは、夫の仕事の都合で、2008年から2009年12月までの2年間を、ここムンバイで過ごした。もっとも、バンガロールとの二都市生活を送っており、わたしは月に一度は1週間ほどバンガロールに滞在していたが、たいていはムンバイで夫と暮らしていた。
住まいは、このホテルのあるコラバ地区に接するカフパレードと呼ばれるエリア。高層アパートメントが立ち並ぶ場所だ。住んでいた当時、蒸し暑い中、よくコラバ界隈を散策したものである。
散策というにはあまりにもタフな、ごちゃごちゃとした商店街をくぐり抜け、それは毎度、探検のようでもあった。そんな探検を終えた後、執着地点がこのホテルであり、このホテルの「シーラウンジ (Sea Lounge)」だった。
いつも、インド門を見下ろす窓辺のテーブルに席を取り、時を過ごすのだ。この場所は、わたしを深く「ぼ〜っ」とさせてくれる。実は「ぼ〜っとできる場所」というのは、そうそうあるものではない。思うところをペンでノートに綴ったりなどしつつ、ただ、コーヒーを飲みながら、道ゆく人々を眺め、ひたすらに、静かな時間を過ごせる。いわば、瞑想のような状況である。
気がつけば、いつのまにか太陽が傾いていた……ということが、この場所ではしばしば起こる。こんな風に、自分と波長が合う場所は、実はそうあるものではない。
今、「自分と波長の合う場所」を思い返そうとしても、すぐには次々に、他の例が出て来ない。
たとえば20年前に訪れた、イタリアのアッシジの修道院ホテル。やはりイタリアの、シエナのカンポ広場。プラハの旧市街、バルセロナのやはり旧市街。アリゾナ州&ユタ州のモニュメント・ヴァレー、ニューヨークのセントラルパーク……。
波長、というのは、理屈を超えて、非常に個人的なものであり、それが「合う」「長居したい」という感覚を育む。長居したいと思える場所に出合えることは、実は簡単なことではないのかもしれないと、今、過去に訪れた場所を回想しながら、そう思う。
ホテルの朝食は、ニューウイングのカフェテリア、プールサイド、そしてこのシーラウンジでとることができる。到着の翌朝は迷わず、シーラウンジへ。料理の数などはカフェテリアの方が多いのだが、わたしもいい加減「大人」なので、食のヴァラエティよりは、環境を重視である。
いつものように、まずはフルーツをたっぷりと。そのあと、パンケーキや卵など、温かい料理を注文する。新鮮なスイカジュースがおいしい。煎れたてのダージリンティもまた。そして最後は焼きたてのクロワッサン(美味!)とカフェラテで締めくくる。
……どう考えても、十分にヴァラエティ豊かな朝食かつ、食べ過ぎだ。
この日は、昼ごろに、ワールドトレードセンターに赴いた。かつて暮らしていたカフパレード、住んでいたアパートメントも真向かいにあるワールドトレードセンター。ムンバイ在住時には、なにか展示会などが行われるたびに、足を運んでいたものだ。
ネットで現在開催されているイヴェントを調べたところ、ベーカリービジネスのエキシビションが開催されていたので、訪れた。なかなかに収穫のあるイヴェントであった。そのときの写真は、後ほど載せるとして、午後は再びホテルへ戻り、「意識的に」ホテルでゆっくりと過ごすことにする。
前日の夜は、MiPhone@Indiaに記録を残していた通り、夫と近所のインディゴ・デリで軽めの夕食だった。今夜は一人ゆっくりと過ごせる。というわけで、夕飯というよりは、遅めのハイティーを楽しむことにした。シーラウンジでは、午後3時から6時まで、ハイティーをサーヴしているのだ。
部屋の冷蔵庫で、昼間ワールドトレードセンターの(やや)高級スーパーマーケット、NATURE’S BASKETで調達しておいた、ハーフボトルのスパークリングワイン、SULA BRUTを冷やしている。夜はそれをゆっくりと飲むのもいいだろう。
夕暮れ時のシーラウンジもまた、いいものだ。アラビア海が夕映えに染まるころ、静かなピアノの演奏に耳を傾けつつの、ティータイム。ハイティーはブッフェスタイル。十分な量をお皿に取って来たのだが、シーラウンジならではの「老齢の給仕」がやさしく微笑みながら、この3段のプレートを供してくれる。
シンプルなサンドイッチも、そしてスコーンも、とてもおいしい。スナック類も、どれも、見た目よりもずっとおいしい。至福のひとときとは、まさにこういう時間をいうのだな、と思う。少なくとも、わたしにとっての。
あまり人が来たがらず、うらやましがられもしないような、ごちゃごちゃとしたムンバイという地の、このオアシスで。
わたしにとって、とても大切な場所であったこのホテルが、テロリストの標的となり、血の海となったあのときの衝撃は、だから相当のものであった。
2008年11月26日。そのとき、わたしと夫は、二人で京都を旅していた。翌朝、テレビをつけてニュースを見て、目を見張った。このホテルが、炎と煙に包まれているではないか!
ニューヨークに住んでいるときには、9/11を経験し、そしてムンバイに住んでいるときに、またしてもこの大きなテロを経験するとは、なんという因果だろうかと思った。
テロリストの標的となったのは、このホテルだけではない。このホテルと同様、外国人や富裕層が多く出入りするオベロイホテル(トライデントホテルと隣接)や、ヴィクトリアステーション、外国人旅行者の多いコラバのカフェ&バー、ユダヤ人会館なども悲劇の場となった。
夫のオフィスはオベロイホテルのすぐそばだったことから、テロ発生の直後に周辺が閉鎖され、彼の同僚は一晩、オフィスから出られなかったという。わたしたちがのんきに京都の夜を楽しんでいたころ、こんな悲劇が身近に起こっていた。やり場のない怒りと悲しみが沸き上がり、不条理に、茫然とする思いだった。
なぜこんなことが、起こってしまうのか。という出来事を、経験するたびに思うことは、月並みではあるけれど、今を大切に生きること。今置かれている自分の環境を慈しむこと。
未来設計は大切だが、楽しみを先延ばしにしすぎるのも、賢明だとは思えない。自分がこの先どれほど生きられるのかなど、誰にもわからないのだから。「蟻とキリギリス」の両側面を巧みに調和させながら生きることが大切なように思う。
足りないものを追うのではなく、満たされているものに目を向けること。わが信条であるところの「身の丈を知る」「足るを知る」こともまた、わたし自身が生きる上で、非常に大切なコンセプトだ。
テロにせよ、戦争にせよ、そもそもは、自分と異なる価値観を受け入れられないところから発生する悲劇である。相手を理解する努力をする前に、攻撃をしかける。その途方もない乱暴で凶暴な力を前にすると、素手の我らは非力の極みだ。だからこそ、争いや戦いは忌むべき、回避すべきことである。
その心持ちは、普段の日常生活においても、同じことだ。
異文化を見下したり、異文化を嫌悪する前に。他人を中傷したり、責めたりする前に、相手を理解しようとする姿勢が大切だ。自分に対しては厳しくてもいいが、他者にはそこそこ寛大でありたいとも、思う。さもなくば、日常は争いの渦だ。
……と、話が横道にそれてしまった。
こんなことに、しみじみと思いを馳せることができるのも、さまざまな経験を重ね、それらを振り返る精神的な余裕が育まれているからこそだと思う。そして、諸々に思いを馳せる時間的、精神的、空間的余裕があるからこそ、でもある。同時にこれは、年齢を重ねたからこそ至れる心境であり、醍醐味であるかもしれない。
次の朝は、プールサイドで朝食をとった。優雅なプールサイドの、しかし中空には、ハトが舞い飛ぶ。カラスが舞い飛ぶ。喧噪の外の世界と隔絶されたこの優雅な空間は、まるで箱庭のようでもあり。
塀を軽々と乗り越えて、鳥は舞い、風は吹き抜け、ああ、なんとちっぽけなことで、幸せにも不幸にもなれる、自分という人間の存在。
このホテルがオープンした当初は、このプールのある方が、メインエントランスであったという。その当時の様子を脳裏に思い描きながら、暑すぎず、心地のよい風が吹く、よい時節のムンバイの朝を過ごす。
自分自身の便宜のためにも、以下、このホテルに関して記した記事をいくつか転載しておく。もしも、興味のある方がいらっしゃれば、どうぞご覧いただければと思う。
■インド彷徨 (2) 2004年4月
インド移住前の旅行。初めてタージマハル・パレスに宿泊。
■安全地帯で過ごす午後。2004年10月
インド移住前の旅行の記録。シーラウンジでのひととき。
■インド彷徨(4) 2005年8月
インド移住直前の旅行。再び、タージマハル・パレスに宿泊。わたしの誕生日と同じ日にオープンした日本料理店WASABIにて、40歳の誕生日を迎えた。このときは、ホテルの写真を山ほど撮影している。
■ムンバイ着。無口な一日。 2005年12月
インド移住の直後から、ムンバイ、デリーと夫の出張が続き、なぜか同行していた我。ホテルライフに飽きた、などと言っていたころ。
■インド社交界のクリスマス 2005年12月
引っ越しだなんだをやりながら、飛び回っていた移住直後の年末。このときはHDFC銀行のCEOだったディーパック・パレックの招きで、彼が主催するクリスマスパーティに参加するため、タージマハル・パレスへ赴いた。自分としては、このときがインド社交界デヴューであり、興味深い経験をさせてもらった。それにしても、サリー姿がぎこちない、初々しい我よ。
■同窓会。伴侶のためのツアーに参加 2006年1月
夫の卒業した米国のMBA、WHARTONのリユニオンがムンバイで開催されたので、妻も同行。数日に亘り、タージマハル・パレスほかムンバイの随所で、さまざまなイヴェントが催された。
■WASABIで過ごす誕生日の夜。鉄人森本氏にも再会。 2008年8月
我が誕生日を祝すべく、夫とタージマハル・パレスの日本料理店WASABIへ。ちょうどインドを訪れていたWASABIの主役である料理の鉄人森本氏と再会し、いろいろなサーヴィスをしていただき、本当に幸せな夜だった。まさかこの数カ月後に、ここが悲劇の舞台になるなど、予想だにしなかった。
■ムンバイでまた、たいへんなことが起こってしまった。2008年11月
夫婦で京都を旅行中、テレビのBBCニュースで知ったムンバイのテロ。燃え盛る見慣れた建築物の姿に、息が詰まる思いだった。
■遠く京都で、ムンバイを、インドを思う。 2008年11月
京都を旅しながらも、心ここにあらずだった一日。ムンバイを思って記す。
■失いてのちに、取り戻せるもの。取り戻せないもの。 2008年12月
日本旅から戻り、ムンバイ宅へ帰宅。数日後、コラバ地区を歩き、テロリストの攻撃を受けたLeopold cafeを訪れた。その後、塀で囲まれ、閉ざされたタージマハル・パレスへ。「Working to restore a symbol of Mumbai's enduring spirit & dignity. ムンバイの、不屈の精神と尊厳の象徴を取り戻すべく、工事中」の文字に、涙。
■ムスリムの休日、ビーフバーガー食べタージを思う。 2008年12月
西日本新聞に5年に亘り連載していたコラム『激変するインド』にて、躍進するタタ財閥についてを記しつつ、タージマハル・パレスのことなども、記した記録。
■米国在住ムンバイカーのジェイと、テロを巡る夜。 2008年12月
夫のMBAの同窓生で、DELLコンピュータのトップエグゼクティヴであるジェイ。世界数カ国を駆け回る多忙な男だが、時折、母親の暮らすムンバイを訪れている。テロ後、彼と久しぶりに再会した夜、テロを巡るさまざまな話を聞いた。その後、彼の案内で出かけた「ムンバイ・ナイトツアー」は、本当に、忘れ難き思い出。
■ふたつのホテル、一部、営業再開。 2008年12月
ムンバイの自宅の窓から見えていた、タージマハル・パレスのキューポラ。テロの後、夕闇に溶け込んでいたのだが、約1カ月後、一部の営業を再開したことから、ライトアップされた。うれしかった。
■嘆きの霧に包まれて、覚束なきタージマハル・ホテル。 2008年12月
ホテルが一部再開したことを受け、早速、訪れてはみたが……。辛かった。
■残る弾痕。臆せず営みを。 2008年12月
西日本新聞の連載『激変するインド』に記した、ムンバイの同時多発テロの話題。
■テロ後の再誕 2009年7月
テロの悲劇を乗り越えて、再び扉を開いたタージマハル・パレスに初めて訪れた日。シーラウンジのテーブルをいつも彩っていた黄色いバラが、白いバラだった。
■クリスマス@ムンバイ 2009年12月
ムンバイとの二都市生活を終えて、ようやく引っ越し(撤退)作業を終えた数日後、バンガロールでホッとするまもなく、HDFCのディーパクの招きで、インド社交界のクリスマスパーティへ。日帰りムンバイで、夜、アーユルヴェーダグラムに直行するという、なんとも慌ただしいクリスマスの一日を過ごしたのだった
■ムンバイ。思いがけないギフト。ホテルでの時間。 2011年2月
ムンバイとバンガロールの二都市生活を終えたあと、ムンバイを訪れたときにタージマハル・パレスに宿泊したときのこと。 テロの後、初めて泊まったこのときにも、思うところ多く、あれこれ書いている。
■モンスーン開けやらぬ、ムンバイ滞在の断片を。 2011年7月
ムンバイを訪れるときには必ず立ち寄り、Sea Loungeでひとときを過ごす。そのような旅の記録の一つ。
■ムンバイで一番好きな場所 2012年5月
Sea Loungeとの初めての出合いから8年。ラウンジの雰囲気は変わらないが、メニューの内容とお値段は激変した。ともあれ、優雅な時間を与えてもらえるのだから、訪れる価値はあるのである。
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