●広島でも仰天! なのに。
先週、広島在住の大学時代の友人が、偶然テレビで「仰天ライフ」の再放送を見たらしい。突然旧友がテレビに現れたので驚いたとのメールが届いた。
仰天ライフを知らない方は、こちらをご覧いただきたい。
■今度の日曜夜8時、日本のテレビに現れます(1)経緯編
■今度の日曜夜8時、日本のテレビに現れます(2)準備編
■明日の日曜夜8時、日本のテレビに現れます(3)取材編
■あんなにも「動く自分」を見たのは、初めてのことでした。
それにしてもだ。ニューヨーク、パリ、東京、その他インド国外へ送った仰天DVD。届いていないようだ。あれからもう、数カ月経った気がする。ああ。インド郵便事情。普通郵便で送ったわたしが悪かったのか。これはもう、消えたとしか思えない。
船で届けたって、もう着いてもいいころだろう。十何年か前、モンゴルを旅したとき、そこから送った絵はがきが半年後に実家に届いたことがあったが、そのケースと同様、届くのだろうか。それとも紛失だろうか。一つも届いていないところが、気になる。
やっぱり、YouTubeでなんとかすべきだろうか。
関係者の皆様。期待をさせておきながら、届いてないようでごめんなさい。
●夫も、日本に来るらしい。米国日本大使館領事部の悪夢が蘇る。
あれは、チェンナイ出張中のことだ。デリー出張中の夫から、電話が入った。
「ねえ、ミホが日本に行くのはいつだっけ?」
「11月中旬だけど」
「僕、ちょうどそのころ、香港出張が入ったんだよ」
「あら、そう」
「香港と福岡って、近いよね」
「うん。近いけど」
「僕、出張の帰りに福岡に寄ろうと思うんだけど、どう思う?」
どう思うもなにも、わたしは今回、2年ぶりの帰国で、しかも東京を端折って福岡に集中して、家族や友人、仕事関係者にあうべく、「自由に羽ばたきたい」のである。
とはいえ、「来るな」というのも冷たい気がする。気のない返事をしていると、
「うれしくないの?」
と問われて、いや、うれしくないもなにもさ〜。もう、疲れたからおやすみ!
と、電話を切ったのだった。
だいたい、彼が日本へ行くとなると、あれこれ事情が変わってくる。友達に会うにも、日本語がわからん男同伴ではなにかと面倒だ。狭い実家で睡眠場所を確保するのも難しい。布団の予備は、あるだろうか。
そんなことより、入国のための査証(ヴィザ)を申請せねばならない。これがまた、面倒なのだ。
彼が最後に日本を訪れたのは、父が他界した2004年5月。
あのとき、ワシントンDCの日本大使館領事部のとある女性から受けた仕打ちは、あまりにも苦い経験として、まさに「トラウマ化」している。
会ったことのない人間に対して、電話での会話だけを通して、あそこまでの怒りに打ち震えたことは、我が人生、最初で最後のことだった。今、こうして書いているだけで、息苦しくなってくる。
いったい何があったのかを知りたい方は、過去の記録を読んでいただければと思う。
この長大な記録の●ホスピスへ。父との対面。(←文字をクリック)の後半である。
今、読み返してみたところ、かなり感情を抑えてあっさりと書いている。実際は、こんな淡々としたことじゃなかったのだ。ああいかん。もう書かずにはいられぬ。
2004年5月27日。米国のワシントンDCに在住していたときのことだ。あの日わたしは、危篤の父に会うために、米国から、日本を目指していた。しかし、わたしが成田空港から福岡に向かっている最中に、父は息を引き取っていた。
ホスピスに着いたときには、もう、家族や親戚が集まっていた。夜、ホスピスから遺体を葬儀場へ移し、葬儀の段取りをあれこれと打ち合わせて、深夜。時差ぼけと、著しい疲労。
その1週間ほども前に、父の容態悪化をうけて、実は日本に一時帰国して1週間ほど過ごしていたのだ。さらにその直前は、夫のインド出張に伴ってインドを旅していた。地球をぐるぐると、回っていたときだった。
ともあれ、葬儀社との打ち合わせを終え、やはり疲労困憊の妹と二人で、呆然としながら葬儀社の前のロイヤルホストで豚の角煮と中国粥のセットを食べていたときだ。
日本大使館の領事部へヴィザを申請に行った夫から、妹の携帯電話に電話がかかってきた。領事部窓口の女性がたいへん無礼な態度で、資料が不足しているからヴィザを発行できないと言っているという。
わたしは、父が万一のとき、夫がすぐに日本へ来られるよう、あらかじめ領事部に問い合わせて資料を万全に整えていたのだ。出してもらえないはずはない。
夫が、「義父がたった今、亡くなったんです」と訴えても、「それでは奥さんに、直接こちらへ電話をしてもらってください」というばかりで、取り合ってくれないとのこと。
妹の携帯電話から、クレジットカードを使って国際電話をかけ、大使館の領事部につないでもらった。その女性は、なぜなの? と問いたくなるほどに、冷淡で、失礼なものの言い方だった。
日本からの招聘理由書が入った封筒(日本から送られた証拠となる切手や消印のあるもの)かファックス送信用紙が必要だという。資料をメールで送信できる昨今、そんなものは不要だろうと思いつつも、わたしは、問い合わせのとき、まさにそのことを予測していた。
だから電話に出た領事部の男性に、「なにか証拠となる封筒とか、ファックスの送信履歴書などがいるんですか?」と、敢えて確認した。
するとその男性は、「それは、便宜上のことですから、必要ありませんよ」ときっぱりと言ったのだ。きっぱりと。
だからこそ、それ以外の書類を準備して、まとめていたのだ。その男性のことを説明したところ、その女性は、
「ああ、そのスタッフですね。わかります。彼はそう言ったかもしれませんが、それは間違いなんです。証拠がないと、ちょっとヴィザは出せませんね。招聘理由書に書かれた日付が早すぎるんですよ。日本から連絡が来たにしては」
「それは仕方ないでしょ? 危篤の人が、いつ亡くなるかなんて、わからないじゃないですか! 父はたった数時間前に亡くなったばかりなんですよ。危篤だからあらかじめ葬儀を予測して、招聘理由書を作ることが、なにかおかしいとでもいうのですか?」
「ともかく、その資料がないと、出せないんですよ」
何を言っても、暖簾に腕押しである。その他の資料、たとえば往復航空券の控えや、夫の銀行口座残高証明や、納税書類や、婚姻証明書や、米国での雇用証明書や、日本での滞在先など、あらゆる資料は整っているというのに!
わたしは夫のために、まだ亡くなっていない父の、しかし「葬儀に出席するために」との理由で、招聘理由書を作成していた。
それにも関わらず、「封筒がないから」というだけで、発行できないだなんてあんまりではなかろうか。しかも、わたしのミスではなく、その男性職員の伝達ミスなのだ。
確かに不法入国の人を取り締まるのもまた、彼らの仕事だろう。しかし、状況を読んでフレキシブルに対応することは、できないのか。
「それでは、夫が日本に来るためには、どうしたらいいんですか?!」
明らかな返事を得られない。
「どういう証拠が必要なのですか? そこにはわたしと夫の婚姻証明もあるでしょ? 夫婦であることは証明されているわけだから、では、あなたがこれから、葬儀場に電話してもらえますか? そうすれば、わたしの父が明らかに死んだことがわかりますから! だったら、偽装もなにも、ないでしょ!」
「そういうこと(電話をかけるなど)は、こちらではできません」
この女は、とことん、ヴィザを出したくないらしい。何が理由かわからんが、出したくないらしい。
疲労と、悲しみと、怒りと、情けなさと、信じられないとの思いで、はらわたが煮えくり返っていた。
わたしはこれほどまでに、会ったこともない他人を憎んだことはない。わたしたちは、何一つ、悪いことや間違ったことをしていなかったのだ。
わたしはついには、言った。
「あなた方がこのようなことをするのなら、わたしはこのことを、メディアにでも何でも、レポートしますから! 誰かが記事にしてくれるまで、あなた方の不条理な行いを、訴えますよ! ともかく、父が亡くなったのは事実で、夫はここに来る必要があるんです! あなたじゃ話にならないから、領事を出してください、領事を!」
今思えば、いささか大げさな言いようであるが、しかし、何が何でも、夫に、日本へ来てほしかったのだ。来てもらわねば、ならなかったのだ。
そうしてようやく、領事を出してもらった。しかも十分以上も待たされて、だ。
領事は開口一番、
「このたびは、御愁傷様でした。事情は担当者からお聞きしましたが、もう一度ご説明いただけますか?」
と言った。わたしは、怒りの涙を流しながら、ことの次第を説明したのだった。領事は、
「承知しました。今すぐ発行いたします」と言った。
当たり前だ。当たり前だ。なぜ、その当たり前のことが、すぐにできない?!!
%^%*&()*%#@$%^! (公開禁止用語を心中で叫ぶ!)
ちなみはその日は金曜日だった。普通だったら、午前中に申請して、午後引き取れる。もしもその日の取得を逃したら、夫はすでに購入していた土曜日の航空券で日本に帰国することさえ、できなかった。
あのとき初めて、わたしは国際結婚、特に言えば、日本へヴィザなしでは行き来できない国籍の夫を伴侶とすることのリスクを、噛みしめた。母国同士が戦争を起こさなくても、イデオロギーの反発がなくても、こんな小さなことでさえ、心に負担をかける。
加えて、わけのわからない人間一人の判断で、行く末が断たれるのだということも、痛いほど、よくわかった。あの日、もしも領事が不在だったらとしたら。
夫は日本へ来ることは、できなかった。
わたしが夫に米国市民権の取得を勧めたのは、実はこの件が背景の一つでもあった。結局現在は、取得しない方向で進んでいるけれど。
ああ、猛烈に長くなった。こんなことを書くつもりはなかったのだが、書かずにはいられなかった。今でも、まだ怒りはおさまっていないようだ。
ああ。消耗した。
ちょっと休憩。
さてさて、夫に日本渡航のヴィザ、と考えただけで、著しく憂鬱な気分が襲ってくる。考えたくなかったが、出張後、ムンバイに戻り、夫と話したところ、やはり福岡に行きたいという。
確かに4年も妻の母国を訪れていないし、香港から福岡は近いし、彼が来ればわたしも滞在を少し延ばしてもいいし、日本で買い物をした荷物を分担して持ち帰れば、一人でよりもたくさん持参できるし、まあ、いいかもしれない。
じゃあ、来れば? と前向きな姿勢を見せたところ、
「僕さ〜、温泉に行きたいんだけど、どう? また湯布院に行かない?」
「ああ、京都もいいなあ。僕は京都、好きだからなあ〜。金閣寺で、またグリーンティー飲もうよ」
「マウント・フジも行きたいなあ。河口湖のサイクリング、楽しかったよね〜。ソフトクリームもおいしかったし」
……。あの〜。どんどん福岡から遠のいているんですけど。
今回、福岡集中って決めてるんだし、温泉欲はすでに2年前の湯布院の玉の湯事件で減退しているし、だいたい、京都だの富士山だの、日本の地理をわかってるのかっちゅうもんである。かつて行ったことがあるとはいえ、すべてわたしにお任せ状態だったから、わかってないだろうな。
そんな次第で、今回滞在中の予定もまた、すべてわたしが決めるという条件のもと、夫も香港から合流することになった。そんな次第で、先週はムンバイ日本領事館へ赴き、資料を申請して来たのだった。明日、受け取りに行く予定だ。
実は、今回の領事館で資料を申請するにあたっても、ちょっとしたトラブルがあり、実はそのことを書こうと思っていたのだが、4年前のことを思い出したらもう、「屁」みたいなものだということに気がついた。取るに足らぬ、ささやかなトラブルだった。なので、もう書かぬ。
ところで下のいちご。仕事帰りに、夫が近所の屋台で買ってきたものだ。マンゴーの季節は、毎日のようにマンゴーを買って来ていた。その後は、カスタードアップルが続いた。先日はスイカ、そして夕べはイチゴだった。
「タダイマ〜」と玄関のドアをあけ、チャリチャリとビニル袋の音をさせながら部屋に入ってくる夫は、なかなかに愛おしいものである。のろけているのである。
インドで、こんなに整然と並べられたイチゴを見るのは初めてで、感動した。味はまあまあだったが、近所のインド料理レストランの超美味クルフィ(インドアイス)と一緒に食べたら、非常においしかった。
「練乳とイチゴ」的コンビネーションである。
●いつのまにか、色柄の海。
わたしもすっかり、インド人マダム化してしまったものだと思う。そもそも、潜在的には「派手好き」だったと思う。しかし、米国時代のファッションと言えば、J. CrewのTシャツにジーンズ姿が定番だった。
ジュエリーはといえば、ピアスホールもなく、ネックレスなどは肩が凝るからとせず、指輪と、バングルだけであった。
ところがこの3年のうちに、どれだけ、じゃらじゃらとした女になってしまったことか。周辺のインド女性の、貧富の差を問わず、派手でじゃらじゃらした容姿に影響されたことは、言うまでもない。
派手な衣類やジュエリーに、すっかり目が慣れてしまったのだ。
さて、久しぶりに日本へ帰国である。季節は晩秋。すでに寒かろう。しかし、革のジャケット以外、冬的な服装がほとんどない。かつてニューヨークやパリを旅したときに買ったシャツなどはあるが、どれもこれも無地だから、とても地味に見えて仕方ない。
でも、着用するのは日本でだから、地味でもいいではないか、と思う。しかし、多少デザインが凝っていても、白だけ、赤だけ、黒だけ、だなんて、なんてつまらないんだろうと思う。
そしてクローゼットを広げて思う。なんて、カラフルなんだろうと。
自分の衣類の写真を撮るのはどうしたものかと思ったが、インドのサリーやサルワール・カミーズ以外の衣類の、その一般的な派手さ具合を見ていただきたく、上の写真がその「サンプル」である。
これらは一応「外出着」だが、コットンの室内着もまた、これに勝るとも劣らぬカラフルさ、賑やかさである。
こういう色柄に日々埋もれていると、「無地」というのがいかに退屈に感じるか、おわかりいただけよう。
で、日本では、いったい何を着ればいいのだろう。荷物になるからできるだけ、軽い服を持って帰りたい。革ジャンの下に半袖の服、というのはだめだろうか。パシュミナのストールでも巻いていれば、暖かいと思うのだが。なんだか、よくわからない。
お待たせしました。
記録を残さぬ間に、すでに3種類を超える広告を目にしていた。
少々古くなったが、せっかく激写したので、載せておこうと思う。
まずは右の写真。先月中旬のものだ。
イギリスで最も権威ある文学賞「ブッカー賞」にインド人作家アラヴィンド・アディガ (Aravind Adiga) 氏のデビュー作「ホワイト・タイガー (White Tiger)」が選出されたのを受けて、この広告である。
問題は、毎度「ヒンディー語」による「ダジャレ」が決め手となっていることだ。
ヒンディ語に明るくないわたしには、即意味がわからんところが、辛い。
ちなみに、左がWhite Tigerの表紙である。
広告はこの表紙をモチーフにしている。
傍らに立っているのはアディガ氏だ。
White TigerをYellow Trykarとしているが、Trykarの意味がわからん。
夫に聞いてみるも、知らないとのこと。というか、真剣に取り合ってもらえない。
悔しい。
黄色いバターとか、マーガリンとか、そんな意味に通ずると予測されるがどうだろう。
ちなみに下のBhookerとは、お腹が空いたとかいう意味らしい。
Bookerとかけて、これはなかなかうまいんじゃないかと思う。
さてお次は先月下旬。
空港へ向かう途中、いつもの場所から取り損ねたので、執念で別のロケーションの広告を激写した。
10月22日、インド初の月面無人探査機「チャンドラヤーン1号」が打ち上げられたそのニュースを反映した広告だ。
打ち上げが22日。
広告を見たのは24日。
相変わらず、すばやすぎる対応である。
Chaar chaand lag gaya!
意味は、わからぬ。
夫も相手にしてくれぬ。
きっと探査機の名前にかけているんだろう。
そして最新の広告。買い物の途中に目にしたが、あっという間に通り過ぎてしまい、うまく撮影できなかった。無念であったゆえ、Amulのサイトにアクセスしたところ、なんと画像がアップされているではないか!
あんなに構えて撮影しなくても、ここで動向をチェックできるのだった。
うれしいけど、つまらんな。
ともあれ、今回の広告もかなり「いかして」いるので紹介したい。
言わずとも知れた、オバマ氏である。今回は英語によるダジャレゆえ、わたしにもわかる。
朝食(BREAK FAST)のBREAKを、オバマ氏のファーストネームであるところのBARACKと差し替えて、
BARACK FAST IN THE WHITE HOUSE!
演説中のオバマ氏に、自分が一口食べた(と思われる)バタートーストを差し出すなっちゅうに、アムール・ガール。
それよりも衝撃的なのは、右下である。
先日のiPhoneがらみで、社名ロゴがアップル社と同様に印刷(←文字をクリック)されていたのには驚いたが、今回は、OBAMAとAMULの名を合体させて、OBAMULである。
オバムル。
節操がないというか奔放というか、なんというか。
やっぱり、この広告から目が離せない日々である。
オバマ関連でもう一つ。
お願い、誰か止めて! 小浜市の暴走(←文字をクリック)を! 名誉市民計画を! フラダンスを!