1991年1月17日。湾岸戦争が始まった。当時、東京で海外旅行誌の編集者をしていたわたしは、開戦直後に、フランスとドイツの取材に出かけた。今だったら、大顰蹙だったことだろう。
湾岸戦争。国際連合が「多国籍軍」(米軍を中心)を派遣して、イラク攻撃を開始した。多国籍軍にはフランスも派兵していた。
インターネットもなければ、携帯電話も普及していない。パソコンどころかワープロすら、使う人が少なかった。手書きの原稿、フィルムの写真、手描きのレイアウト、写真植字……。
そしてニュースを得るのは、新聞かテレビ、ラジオに限られた。
開戦のニュースを知ったのは、取材に出発する数日前のこと。「海外渡航自粛」を要請する新聞の文字が、断片的に、記憶の深海から浮かび上がる。その冊子は、今はなき昭和シェル石油の、クレジットカード利用者に請求書とともに送られる小冊子だった。小冊子ながら、かなりの予算と情熱がかけられた仕事だった。
坂田の自分史動画でもこの件を熱く語っているので割愛するが、この仕事で「国境を越えつつのドライヴ取材」をいくつも体験した。稀有な取材だった。
このときはフランスとドイツの旅。わたしは編集者として、外部のライター、フォトグラファーと3人で旅した。
まず、パリ経由で南部の「ポー」という小さな都市を目指した。パリの空港は比較的閑散としていて、武装した兵士たちが数メートルおきに屹立。ものものしい雰囲気に、戦争をしているのだということを実感した。
一方のポーは、のどかなものだった。空港でレンタカーを借り、「ツール・ド・フランス」のルートをなぞりつつ、ピレネー山麓をドライヴし、南仏プロヴァンスを目指した。
カルカソンヌを経て、アンドラ公国に滞在した後、スペインとフランスの国境を行きつ戻りつしつつ、ピクニックランチのセッティングをして撮影した。その後、農道の一隅の車中にて、3人でランチを楽しんでいたところ、車の窓がドンドンと叩かれた。
銃を構えた警官だった。近隣の村民に通報されたようだ。取材のレコメンデーション・レターなどを提示してことなきを得たが、戦争の最中にのんびりと国境沿いをドライヴしている3人の東洋人は、確かに異様に映ったことだろう。
その後、地中海沿岸のコート・ダジュールは歴史的な大雪に見舞われて、取材が思うように進まないなどのトラブルはあったが、取材はなんとか終了。その後、パリまで一気に走り、そこから空路でフランクフルトへ飛んだ。アウトバーンを旧西ドイツから旧東ドイツへ。
同じ道ながら、途中から情景がガラリと変わることを目の当たりにした。旧東側のアウトバーンは、道もガタガタ、ドライブインどころか、トイレさえもなかった。
ワイマール、ライプツィヒ、ドレスデンなどに立ち寄りながら、旅の最終地点、ベルリンの壁、崩壊直後のベルリンを目指したのだった。
30年前のことながら、綴れば鮮明に記憶が蘇る。
何が言いたいかといえば。
情報が少なかったからこそできた無謀。今であれば叩かれるであろうことも、当時は「知らなかったし大丈夫だろう」と思ったから実行できたことはたくさんあった。この件に限らず。
他人の苦しみに思いを馳せることも大切だけれど、四六時中、抱えて自分の日常を疎かにしてはならない。911(米国同時多発テロ)のときも、1126(ムンバイ同時多発テロ)のときも、それを肝に銘じた。
情報の摂取量に気をつけて、心身の健全を保ちながら、生きよう。
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