バンガロールでは毎年2月、「ジャパン・ハッバ」(日本祭り)が開催されてきた。HABBAとは、当地カンナダ語で「お祭り」を意味する。
2005年に、バンガロールで日本語を学ぶ学生や教師らによって始められたこのお祭り。折しも、わたしがインドに移住した年のことである。年々、その規模は拡大、パンデミック直前の2020年には6000人を超える動員数だった模様。かつて個人的に助っ人を依頼されて2回、ステージ・プログラムの司会を務めた。
ミューズ・クリエイション発足後の2013年以降は、毎年、メンバーたちと参加してきた。ミューズ・クリエイションのオリジナル手工芸品の販売、書道や折り紙のデモンストレーション、コーラスやダンスのステージ出演……。
「ジャパン・ハッバ」は、「ミューズ・チャリティ・バザール&コンサート」や「クリスマスバザール」に並んで、ミューズ・クリエイションの毎年恒例三大イヴェントの一つでもあった。
パンデミックの影響で、昨年に引き続き、今年もオンラインでのイヴェントが開催されるという。今年は日印国交樹立70周年&ミューズ・クリエイション10周年ということもあり、何らかの形で参加できればと思っていたところ、「バンガロールで暮らす日本人」を紹介するプログラムに参加してほしいとの依頼を受けた。
1人わずか数分ほどのドキュメンタリーだが、取材に時間がかかることは理解している。企画と取材を担当しているのは、流暢な日本語を話すメガナ (Meghana)。彼女はバンガロール市内で日本語教師をしている。撮影担当は、彼女の学生時代からの友人だというスラージ (Suraj)とヤシャ(Yasha)。NETFLIXの撮影も手がけるというプロフェッショナルだ。
現在の我が家は、新居(当面は別荘として利用)に運び込むための調度品などが秩序なく並んでいて、コーヒーテーブルの上にも、あれこれと書籍が放置されている。新居のライブラリーに並べるべく、近々箱詰めをするつもりの雑多の山を、メガナが見て、声を上げる。
「フランク・ロイド・ライト!」「サルバドール・ダリ!」
聞けば、メガナとスラージは同じ学校で建築を学んでいたとのことで、彼女はフランク・ロイド・ライトばかりか、ダリのことも大好きらしい。わたしの書棚を見回しながら、「宝箱のよう!」と目を輝かせる。
庭にカメラをセットして、わたしの取材は1時間弱で終了したが、その後も、おやつを食べ(トムズ・ベーカリーのドーナッツ)、お茶を飲みつつ語り合う。20代半ばの彼ら。建築を学んだものの望む仕事が見つからず、別の道に進んでいる今。
米国で生まれたあと、家族と共にバンガロールに戻ったというスラージは、取材中に話した我が20代の旅のエピソードやニューヨークでの起業の話に関心があるようで、いろいろと質問される。
日本の若者向けに実施していたセミナーの内容は、インドの若者にも応用できると実感する。毎度、若者に投げかける質問。
「スマートフォンはもちろん、インターネットも、携帯電話もないの。デジタルカメラも。小さなキャリーバッグにカメラとノートと最低限の衣類だけを詰め込んで、どうやって3カ月間の旅を実現したと思う?」と言いながら、旅のノートや地図、分厚い時刻表などを見せると、彼らは目を見張る。
便利になるのはいいことだけれど、頼りすぎるのは危険。「裸一貫でも生き延びられる力と知恵を身につけなければ」と、毎度のごとく、熱苦しく語る。
一方のヤシャは、父親が空軍に属しているとのことで、幼少時からインド各地を転々としてきた。最初の記憶はアンダマン・ニコバル諸島だというので、スバス・チャンドラ・ボースや日本軍の話に言及すると、3人とも驚いている。
日本に関心があるのなら、先日の「インド独立の志士、朝子」さんや、ムンバイの日本人墓地、日本山妙法寺、ナーグプルの佐々井秀嶺を取材してはどうかと次々に話をもちかけ、話は日印の戦争の歴史にも及び、世界史の授業と化す。
引き留めたわけではないのだが、都合3時間ほど語り合って終了。思えばこれまで、インドの若者らと日印の歴史などを話す機会はなかったのだが、彼らが前のめりで関心を示す様子に、話し甲斐を感じた。
わたしの発信は概ね「特定ごく少数」にしか関心を持たれない。「暖簾に腕押し」だと自覚しつつ、それでも「自分が伝えたいことを発信すべし」と、自分に言い聞かせる日々。それがわたしの「個性」なのだから。
ともあれ、昨日は久しぶりにリアルな手応えを感じて、うれしかった。
彼らを見送りし後、家に戻れば、夕焼けが、美しかった。
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