不易流行。古来から変わることのない、普遍の知恵や英知〈不易〉を取り戻し、現代の新たしき〈流行〉を取り入れる暮らしをすると決めて1カ月。
ライフスタイルそのものは、インド移住以来、温故知新、不易流行を取り入れてきたが、こと表現方法に関しては完全に「新しさ」に移行していた。
日記やジャーナルは手書きだったが、人との交流において、手書きは少なかった。しかし今年に入り、それを増やしたことで、「言葉を吟味する訓練」ができるようになった。
福岡に暮らす母とは、毎朝メッセンジャーで挨拶を交わしてきたが、今年からは5年日記に毎朝数行書いて、写真に撮って送信し始めた。これが自分のためにも、非常にいい。
わたしは日本で一般的に使われている「安否確認」という言葉の響きがあまり好きではない。しかし手書きだと、その「事務的な響き」が軽減される。行動に「心」が伴う気がする。つまり、自分のためにいい。
今、来週のセミナーの資料を作っているのだが、大切な言葉などは、ところどころ手書きにして、それを画像として取り込んでいる。そうすると、無機質な資料に温もりが添えられる。
資料を作るに際しては、しばしば引用文を転載することがあるのだが、たとえ時間がかかっても、手書きにしたほうが、自分の中にも遥かに深く、取り込まれ、刻まれる。
前時代的というなかれ。若い世代には本当に、手書きの機会を増やして欲しいと、切に切に、思う。
多分、多くのライターがそうしていると思うが、わたしは仕事の原稿の入稿は、たとえ夜仕上がっても、100%、翌朝まで寝かせる。自分も寝る。そして翌朝、読み返す。コラムなどの長すぎない原稿は「声に出して」読み直して、修正を加える。
約2〜30年前までは、自分のことばが「活字になる」ことは、極めて稀なことであり、緊張を伴うものでもあった。「誤植(誤字、脱字など)」が発生する」可能性もあるから、編集者時代には、何度も何度も読み返して、作品を世に出すプロセスを経てきた。
しかし、今や、自分の何気ない一言が、一瞬で活字になり、世界中を駆け巡る。そのプロセスに伴う精神構造の変化たるや……。なかった昔に戻ることはもはやできない。
しかしその一方で、無理をしてでも引き返したほうがいいこともある。
誹謗中傷……とまではいかなくても、シニカル、ジャッジメンタルな言葉に溢れ、ギスギスしがちなソーシャルメディアの世界。売り言葉に買い言葉。自分とて、その渦に飛び込み、巻き込まれたこともある。だから敢えて、軌道修正をせねばと思う。
日記が面倒なら、「心の叫びノート」を一冊用意すればいい。毎日書く必要はない。何かを吐露せずにはいられない心境になったとき、誰かに言葉をぶつける前に、まずはそこに、言葉を書き殴ればいい。わたしの過去の日記には、「おお、荒れとるな」と思えるページが、たまに散見される。一旦、書くと、気持ちが落ち着く。眠れる。
そうすれば、同じような不平不満や罵詈雑言をソーシャルメディアにぶつけて、誰かに不快な思いをさせることもない。それは他人を責めているようで、実は自分で自分を傷つけ、感性を麻痺させ、思いやりを踏み潰していることにもなる。
本来、世間に晒す言葉とは、自分の言葉に本名とサインを添えて、全世界に発信できることだけを、世間に放出すべきなのだ、とさえ、このごろは思う。いや、わたしもたまに、酩酊状態で書くこともあるから、自分に対しても戒める意味で。🥂
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