🌾2年前まで、我が家の「日本米」は、年に一度のニューヨークで調達するカリフォルニア産コシヒカリの「田牧米ゴールド」と、一時帰国時の日本でランダムに購入するお米によって、賄われていた。
しかし、空を飛べない昨今。あらゆる海外調達の在庫が尽きたあとは、すべてをインド国内で調達している。日本米の調達先は、北インドのウッタル・プラデーシュ州にある「アラハバード有機農業組合」だ。昨年より、ここで生産されている合鴨製法のあきたこまちなどが、我が家における「日本食」の主食。滋味にあふれるおいしさで、満足している。
【アラハバード有機農業組合】
http://ashaasia.org/aoacindia.org/aoac/
お米は従来、ル・クルーゼの鍋で炊いていたが、先日、DASTKARの手工芸品バザールで、新しく円柱状の「炊飯用」の石鍋を購入して以来、その炊け具合のよさに感動し、毎回、利用している。北東インドはマニプール産の石鍋は、インド移住当初から愛用していたが、炊飯専用鍋を購入するのは初めてだった。
さて、アラハバード有機農業組合からは、月に一度、注文票がメールで送られてくる。オンラインで購入できないのは不便だと思う一方、時節に応じた情報を届けてもらえるのは、今となっては、懐かしい感じでもあり、つい最後まで読み入ってしまう。
特に、「編集後記」は、担当の方の心がこもっていて、これまでも何度か、感銘を受けつつ読んだ。
今回は特に強く、わが琴線に触れた。
ロックダウンから一年経った現在。思い通りにことが運べないなか、日常生活を営む上で不可欠なものは、美味しい「食べ物」と「言葉」だと思うとされたあと、「言葉」についてを記されている。
ご自身にとって、力となっている「言葉」として、詩画家の星野富弘の「渡良瀬川」にある描写が引用されていた。
子どものころ、渡瀬川の岸辺で遊んでいた星野氏は、うっかり川の中央まで流されてしまった。元いた岸に戻ろうとするも、流れは激しく、あがけばあがくほど、水を飲み、溺れかけた。……と、ある瞬間、「何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか」と気づき、方向転換をし、下流に向かって泳いだ。ほどなくして、足をおろすと、川底は股ほどの浅さだったというお話だ。
「流されている私に、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」という言葉は、この通信メールを通しても、わたしの心を揺さぶった。
揺さぶったと同時に、実は数カ月前から書こうと思ってそのままになっていたエピソードを、改めて思い返させられた。
🐦わたしは、Twitterのアカウントを開設してはいたものの、10年ほど、あまり使っていなかった。発信源が増えすぎたというのもあるが、Twitterの中の「暴言」や「毒」が目に飛び込んでしまい、情報の取捨選択が難しくなったからだ。
しかし去年、イヴェント告知に伴い、ミューズ・クリエイションのアカウントを新規で設置したことで、ここ数カ月、個人のアカウントも見直し、使い始めている。今では、フォロー先を見極められるようになり、ストレスはないが、最初の数週間は、うっかり「見るんじゃなかった」的なつぶやきを目にすることが続いた。
気軽に言葉を発信できるがゆえの危険性は、わたしが敢えて言うまでもない。酩酊しての独り言であれ、寝ぼけたときの暴言であれ、一瞬にして活字となり、世界中を駆け巡る。暴言や誹謗中傷の応酬が、閉塞感に満ちた世界に蔓延して、誰かの心を深く突き刺す。昨年は、それが理由で自害した人も多かったように思う。
そんなニュースを目にするにつけ、思い出すのは、高校時代、大学受験用に購入した参考書だった。
📕わたしは、もちろん、すべての教科書の類を保存しているわけではないが、大切な本は、ずっと一緒だ。この参考書にあるいくつかの作品(の抜粋)は、教科書にある作品と重複するものも含め、今でもわたしの心に残っている。
『セメント樽の中の手紙』(葉山嘉樹)、『野火』(大岡昇平)、『羅生門』(芥川龍之介)、『舞姫』(森鴎外)、『山月記』(中島敦)、『走れメロス』(太宰治)、『ぼろぼろな駝鳥』『レモン哀歌』(高村光太郎)、『永訣の朝』(宮沢賢治)、『はじめてのものに』(立原道造)、『言葉なき歌』(中原中也)……。
今、パラパラとページをめくりながら、3つ4つ、例に挙げようとしたら、次々に、当時の心に染みた文章が飛び込んでくる。
中でも最も深く心に残っているのは、標題の大岡信による『言葉の力』だ。
わたしは、寡黙である一方で、饒舌だ。饒舌な時、とても口が悪くなる時がある。やれやれ、高校時代にこれを読んで反省したはずなのに、未だに言葉が悪いのだ。本当に心に刻まれているのかと、自分に突っ込みたくなるが、ともあれ、この文章に、心底、感銘を受けたのだ。
無論、言葉のたとえ……というよりは、「桜色の出どころ」の事実に驚愕した、といったほうが正しいかもしれない。
鉛筆の線は、高校時代のわたしが、雑に引いたもの。わたしが「得も言われぬ」という表現を好んで使うようになったのは、この文章に起因している。関心のある方は、短い文章につき、お読みいただければと思う。
天に唾すれば我が身に返る。
自分の吐く言葉は、自分が吐かれて心地よいか。改めて問いながら、生きたい。
🌸 🌸 🌸
『言葉の力』大岡信
人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。
「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」
と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。
実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。
考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。
このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。
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