昨夜、アマゾン・プライムで、映画『サンダカン八番娼館』を見た。山崎朋子原作を読んだのは1991年。情報誌の取材でコタキナバルからサンダカンまでをドライヴ取材した時のことだ。この映画が一世を風靡した時、私はまだ小学生で、背景を知らず。20代半ばの私は、本を読んで、すさまじい衝撃を受けた。
コタキナバルに日本人墓地があることは知っていたが、取材目的から逸れることから、訪れなかった。そのことが心の奥底に沈殿していた。だから2010年に初めてムンバイの日本山妙法寺を訪れ、森田上人と語り合い、日本人墓地を訪れ、からゆきさんの供養塔に合掌した時は、感無量だった。
日清日露を勝ち抜いて、あたかも景気良さげな明治のころ、庶民の多くは貧しかった。まだ幼い少女らを含む多くの九州の女たちが、アジア諸外国、果てはアフリカにまでも、石炭輸出の船底に押し込まれ運ばれ、売られて、1日に何十人もの男の相手をする命運を担った。
無数の女たちの密航が黙認されていたのは、彼女たちが「外貨を稼ぐ手段の一つ」だったからだ。熊本に生まれ、炭鉱にもルーツを持つ私にとって、からゆきさんの話し言葉が全身に染み渡って、遠い時代のことなのに、身近にさえ感じて、辛かった。
しかし、悲劇ばかりではない。現在では想像に絶する苦境を経た挙句、故国や故郷や身内に裏切られ、それでもなおタフに生き延び、「日の丸同士」と助け合い、異郷の地で生き延びた女性たちがいた。彼女たちのことを、過去10年以上、セミナーでは必ず言及してきた。
ロックダウンを機に、セミナーを動画化し始めた。その一つ『パラレルワールドが共在するインドを紐解く③前編』を見て「からゆきさん」という存在を知り関心を持たれた方もいる。眞代さんもその一人だ。難しいテーマなのは承知の上で、丁寧に『教えて! みほ先輩!』で語ろうと思う。
再度、目を通すために引っ張り出した資料。小冊子は新年動画でも言及した情報誌。コタキナバルからサンダカンまで四駆でドライヴするも、悪路で車が故障。写真の左端で、首に手ぬぐいを巻き、頭を抱えているのは、26歳の私だ。
コメント