一昨日は、改めて伯父(夫の亡母の兄)の家を訪れた。パンジャブ地方、現パキスタンのラホールを出自とする、夫の母方の歴史を取材するためだ。これまでも、英国統治時代から、インド・パキスタン分離独立を経て、インドで事業を起こし、政治や経済に関わってきた曽祖父や祖父の偉業を聞いてきた。聞くにつけ、関心は深まった。
夫の親族は少ない。伯父の一人息子はもちろん、家族の歴史を知っているだろうが、わたしたち夫婦も、引き継ぐ子供たちがいないとはいえ、話を聞き、記録にとどめておきたい。そう思い続けてきた。
* * *
若いころのわたしは、あたかも自分の力で未来を選択し、それなりに努力をし、人生を歩んでいると自負していた。しかし、50歳を過ぎたころから「わたしは、絶大なる力を持つ存在により、定められたレール(運命)の上を歩いてきたに過ぎない」と思うようになった。
さらに、パンデミックで外出ができない日々、自分史動画などを作るために資料を整理する中、その思いを新たにした。
記憶を遡れば、小学校の入学式の日。担任の先生が黒板に堂々と「引頭裕子」と書いた時から。
「みなさん、はじめまして。わたしは”いんどう・ゆうこ”です。でも、インド人ではありません。」
その言葉に、クラスがどっと笑った。緊張がほぐれた。
のちに思い返せば少し肌色が浅黒く、目鼻立ちがはっきりしていた引頭先生は、思い返すにインド人女性のようだった。
1990年、地名の語源が「ヨガ」である世田谷区の「用賀」に移った。
1994年、まだインド人が誰も住んでいなかった西葛西に引っ越した。
1996年、ニューヨークへ渡り、数カ月後にインド人男性とカフェでテーブルをシェアした。
2001年、夫の故郷、デリーで結婚をした。
以来、我が人生のレールは、まだ見ぬインドへとまっすぐに伸びていた。自分なりに懸命に、切磋琢磨してて生きているつもりだが、それらは自分だけの力ではない。そうとも、思う。
動画を撮りながら、伯父の話を聞く。デリーに身を置いて話を聞くのは、バンガロールで話を聞くのとは全く異なる、この街の、過去と現実がせめぎあいながら共存する、空気の中にあっては、独特の臨場感とリアリティがある。
世界史の、インド史の中に揺蕩うような、奇妙な感覚を覚えながら、話を聞く。今、それらをどう整理すべきかはわからない。今後また、取材を重ねたいとの思いが強まった。
先日も記した通り、祖父が創業し、伯父、従兄弟へと引き継がれた製糖会社と鉄鋼会社。中でも鉄鋼会社は祖父の時代から川崎に幾度も訪れるなど、日本との関わりも深い。
最近では、2012年の日立造船との合弁会社設立。伯父と従兄弟は、日立造船の有明工場にも幾度か訪れている。我が生まれ故郷の熊本だ。
このあたりをご縁を書き始めると尽きぬが、ともあれ、わたしたち夫婦にとって、伯父は非常に大切な存在だということを、記しておきたい。
さて、わたしとの出会いから4年以上が経過してなお、結婚に踏み切れなかった夫。今なら、わたしよりもかなり若く、まだ20代だった彼の迷いもわかる。しかしわたしとて、30代半ばとなり、将来の身の振り方を定めたいところ。
そんな時期、米国出張に来ていた伯父と会い、3人で食事をした。その後、伯父が夫と二人になったときに、わたしとの結婚を後押ししたということを、夫の口からつい数年前に聞いていた。取材の最後に、そのことを伯父に確認してみた。
「そう。あのとき僕は、アルヴィンドに言ったんだよ。彼女を、手離してはいけないってね。本当に彼女を必要とするのならば、すぐに結婚すべきだと」
結局はそれからも、「僕はまだ若い」といい続けて煮え切らない夫に、わたしは業を煮やした。
2001年になってまもなく、「結婚するか別れるか、どっちかはっきりしろ」と詰め寄り、婚約するに至ったのだが、伯父の言葉が大きな後押しとなったことは間違いない。
たくさんのエピソードを聞いたが、この日のハイライトは、「彼女を手離すな!」であった。
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