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『インド発、世界 2012』India Journal 2012 (←Click here!)
昨夜、アーユルヴェーダグラムから戻って来た。夫の仕事の都合上、1日早めに戻ったものの、実質6日間、じっくりとリフレッシュして来た。
朝昼晩、ヴァラエティ豊かな野菜類による、健康的で美味なるヴェジタリアン食。朝と夕方の、オイルマッサージなどを中心としたセラピー。そしてヨガ、瞑想、呼吸法といった1日3回のクラス……。
空いた時間には、庭を歩いたり、本を読んだり、ぼーっとしたりして、過ごした。
去年はまだ「大晦日は賑やかに過ごしたい」との思いがあったから、25日の夜にチェックインして、無理矢理31日の夜には戻って来た。
しかしながら、毒気を抜かれた我々は、夜の街へ繰り出す気力も衝動もなく、家で静かに、ただシャンパンをあけただけの新年を迎えたのだった。
従っては、今年はいっそアーユルヴェーダグラムで年を越してしまえとばかりに、ド賑やかなクリスマスパーティの翌々日から、急遽「道場入り」を行ったのだった。
さらには午後10時には就寝という、老人子どももびっくりな、超健康的というか地味すぎる年越しをやってのけたのだった。
今回の滞在の収穫は、ゆっくりと本を読めたこと。
ガンディーの生涯(上下巻)。
ガンディーとタゴール。
先日、日本へ帰国したおりにまとめて購入していた本の一部である。タゴールの生涯(上下巻)も購入しているので、近々読もうと思っている。
ガンディーにせよ、タゴールにせよ、インドを代表する人物としてあまりに有名で、あまりに有名なあまり、自分でも「知った気」になっていたが、読みすすめて、何一つ知らなかったことに愕然としながら、読み進めた。
ガンディーの行ってきたことが、今のインドに息づいていることを確認しながら、読んだ。
インドの手仕事を守らねばならぬ理由。一部の人間の富のために使われる機械への懸念。暮らしながら、なるほど、と実感して来たことの答えが、この本のなかにはちりばめられていた。
もっと早くに読むべきだったとも思う一方、今、身を以て感じたことを、活字で再認識したことで、重みが増したとも感じる。
丸5年の歳月をこの国で過ごして、住めども住めども、深淵を覗き込むような心持ちは変わらず。
「試しに」と書き始めたブログは、すでに5年分が溜まってしまい、流れ落ちた記録、言葉は、川底に沈んだまま。
今年は「ライター」としての自分もさることながら、「編集者」としての自分を呼び覚まし、過去を集め編み、未来を紡ぐような、実りある作業をもっと、心して努めたいと思う。
途方に暮れるほどに広く深く豊かな、この国の片隅で。
* * * * *
片隅。と言えば、先刻、自分が書き記した「片隅の風景」を読み直し、自分が書いておきながら言うのもなんだが、「なんと味わい深い」と思う散文が見受けられたので、ここにリンクをはっておく。
読んでいただければと思う。
■片隅の風景 インド (←Click!)
インド発、元気なキレイを目指す日々(第二の坂田ブログ)
(←Click)
改め。
排ガス渋滞 繁華街を 広告ラクダが ゆきました……。
なかなかに人目をひく広告ではある。
しかし、ラクダのインパクトが強すぎる。
肝心の広告が「なんだったっけ?」な状況に、なりがちな気がしないでもない。
さてさて、新年が明けて早くも1週間あまり。
年末年始が静かすぎた反動か、年明け早々、仕事や社交や雑事で、時間が瞬く間にすぎていく。
そんななか、今日は久しぶりに静かでゆっくりとした日曜日。
メイドや庭師がいないだけでなく、夫が早朝からムンバイ出張へ赴いたので、まるきり一人の一日なのだ。こんなに完璧な一人は、半年ぶり、いやそれよりももっと。
こんなときこそと、自分のやりたいようにと、書斎の片付け、キッチンの片付けなどを黙々と始めたが、なにしろ今朝は5時半起床。午後には睡魔に襲われ、2時間ほども昼寝をした。
普段から睡眠はしっかりととっている方だが、一人で寝るのと夫と寝るのとでは、熟睡度が違う。すっかりリフレッシュした。
新しい年になり、新しい場所にブログを移動して、「区切り」をつけることを繰り返してきたが、未だ、日々、このように自分のインド生活の断片を記し続けていることが、よくわからない。
さらには「きれいなブログ」をはじめて1年あまり。こちらも、「試しに」始めたものの、当初の「思惑」からはかなりはずれ、自分の中ではかなり中途半端な存在感だ。
今年は自分が発する言葉、文章を、もっと整理せねばとの思いが高まっている。
ただもう、世の中の、あらゆるメディアを通しての「情報の多さ」には、目がくらむ思いだ。
その中で自分が、誰に何を伝えたいのか、それも何のために、などと考えてみるも、行き着く答えなく、ただ日々書き連ねている。
「有意義」。
が、もう少し、目に見えたなら。取捨選択とは、いかにも難しい。
模索しながら、増やすのか、削るのか、惜しみなくなのか、惜しむべく、なのか。
年末年始に滞在したアーユルヴェーダグラムで、数冊の本を読んだ。中でも『ガンディーの生涯(上下巻)』 には、心に響く言葉がちりばめられていた。
その言葉のいくつかを、書き出して、反芻した。
ガンディーの言葉を「真に受けて」、たとえそれがささやかなことですら、自分のライフに反映させるのは、しかしおこがましくも、軽率かもしれぬ。
ただ、十年前のわたしの心には響かなかったであろう理想論が、今のわたしには、「そう在るべきだ」と訴えかけてくるいくつかもあり、それは、年を重ねたせいでもあろうし、インドに暮らし始めたせいでもあろう。
「ジャーナリズムの唯一の目的は奉仕でなくてはならないことに、わたしは気づいていた。新聞は大きな力である。しかし堰を切った奔流が、農村地帯を水浸しにして、作物を荒らすように、制御されないペンは、破壊に役立つだけである。そしてその制御が、外部から強要される場合は、制御がないよりもっと有害である。」
ガンディーのこの言葉を、あらゆる「書き手」に反映させるとき、たとえばこのインターネット上の、途方に暮れるほどの情報量。
プロの、あるいは素人の、真摯な記事、美しい言葉、あるいは悪意に満ちた記事、誹謗中傷、醜悪な文章、もう、絶え間なくあふれる言葉の渦の中。
清流の、いや濁流の、混濁の、ただ中に在り、まるで泡沫のような自分の言葉の連なり。
インドがあまりにも、日々、濃密すぎて、新しく伝えたいこと、繰り返し伝えたいこと、初めての人に伝えたいこと、古くからの人に伝えたいこと、それらが渾然一体で。
書き手としての、あるかなきかの矜持が揺らぐ。
空を仰げば新月が光り、ちっぽけな逡巡が滑稽にさえ思えるも、自問する自分を自嘲することなく、きちんと向き合っていきたい今年も、と思う。
そして成し遂げられない自分を嫌悪し、叱咤する心も、大切にせねばとも思うのだ。
今年もまた、迷いながら歩く。走る。
★ ★ ★
■もう一つの坂田ブログ:インド発、元気なキレイを目指す日々 (←CLICK!)
●娘の結婚間近! デラドゥンの叔父来訪。
●また一つ、お気に入りの布の店が。
●ジャンク2連発ランチ! 夕飯はヘルシーに。
●初サリー。初会合。語り合う夜。
●あけましておめでとうございます。
★ ★ ★
ここ数日のバンガロールは、快晴続きで心地が良い。昨年の後半が、例年よりも雨が多く曇天続きだったので、久しぶりに訪れた夏、という印象だ。
もっともバンガロールの夏は4月から5月にかけて。今の時期はもう少し肌寒かった気がするのだが、もう、なにがなんだかわからない。
一方で実家のあるデリー。今年は非常に寒いらしい。先日、デラドゥンに暮らす叔父が遊びにきたのだが、
「北は寒すぎていやだ。この時期は南に逃げるに限る!」
といいつつ、クールグ(昨年訪れたコーヒー農園のあるところ)で行われた結婚式に参加したり、チェンナイの南、ポンディチェリにあるオーロヴィルに滞在したり、バンガロールに訪れるなど、避暑ならぬ避寒の旅を続けている最中だった。
各々の地での彼の経験した話が非常に面白く、あれこれと書き留めたいところだが、尽きぬ。
その叔父の娘、アースタが来月結婚する。ムンバイ在住の彼女。ニュースのアンカーをしている才媛だ。「きれいなブログ」に写真を載せているが、テレビの画面越しでも、その美しさが伝わってくる。
アースタの結婚相手はクリスチャンだとのことで、彼女の故郷デラドゥンでヒンドゥー式の結婚式をしたあと、彼の故郷ゴアでクリスチャン式結婚式をするという。
いずれのイヴェントも数日に亘って行われる。
わたしはどちらにも出席する意欲満々なのだが、夫が仕事を休めるかどうかが不明。いずれにしても、個性あふれる結婚式を見られそうで楽しみだ。
我が家の周辺は、わたしたちの結婚(国際結婚)を歓迎してくれただけあり、インドでは非常に珍しく、異教徒間、あるいは異なるコミュニティ同士の結婚が多い。
インドの結婚事情については、インドに暮らし始めて初めて知ったのだが、未だに見合いは多く、同じコミュニティや宗教、カースト間の結婚が望まれている場合が多数だ。
NRI(海外在住のインド人)ですら、いや、NRIだからこそ、親の決めた相手と結婚するというのも、一般的に見られる。
映画、"My Big Fat Greek Wedding"と同じような状況である。ちなみにこの映画、かなり楽しめる。お勧めだ。
一方、我が家の周辺。まず義父ロメイシュが義母アンジナ(アルヴィンドの実母)の他界後に再婚していること自体が、非常に珍しいこととされている。しかも再婚相手(ウマ)は離婚経験者。
自分の知る限り、インドにおいて、若い世代は別だろうが、彼らのようなケースを知らない。
ちなみに二人は、今夜から「極寒デリー」を脱出すべく、ウマの娘(前夫との間の一人娘)家族の住むシンガポールへと先ほど旅立ったようだ。
ちなみにロメイシュとアンジナは恋愛結婚。
ロメイシュの両親は見合いだったらしいが、非常に「ラブラブ」だったとのことで、パーティなどで二人が仲良く踊ったり、ときに大柄な祖父が小柄な祖母を膝に乗せたりするなど、インドでは珍しいカップルだったようだ。
ということは、アルヴィンドの叔父から聞いた。昔日の二人の写真を見ていると、ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロを思い出す。
ロメイシュの亡兄は、シク(スィク)教徒の妻と恋愛結婚。妻側は名家の出身だったこともあり、家族の大反対に遭ったらしいが、「固い絆」で結ばれていたらしく、結婚した。
子供はいないが、彼女は現在、デリーに4つの大学を持っており、80歳を過ぎて未だ現役だ。
義姉スジャータとラグヴァンは、米国の大学で、ラグヴァンの両親は英国の大学で出会っての恋愛結婚。
ラグヴァンの両親はカーストの違いにより周囲の反対が大きかったらしい。だからこそ、子供たちの結婚は「自由を尊重した」ようだ。
ともかく、いずれの家庭も「インド的ではない」ことが幸いして、わたしたちが夫婦でいられるのだということを、この珍しい一家の恋愛事情を知るにつけ、思うのである。
本当は、「デリーの冬は寒い」→「デリーの実家の風呂場は特に凍える」→「ヒーターが欲しい」→「ムンバイのモンスーン時には除湿器が欲しい」→「地域別対応家電を開発してもらいたい」→「ところでパナソニックとサンヨーのニッチ商品を見つけた」という話に持っていきたかったのだが、話が大きくそれた。
とりあえず、写真だけでも、載せておく。
そもそも、きわめて個人的なことゆえ、書くつもりはなかったことなのだが、書かずにはいられないので書く。
検査結果は何の異常もなかったので書くのだが、実は本日、全身麻酔をしての、とある検査を行った。
以前の健康診断で、「基本、たいそう健康体」ではあったのだが、一部、レントゲンでははっきりと確認できないが、念のため見ておいた方がいいかも、という物体が体内にあり、それを内視鏡で検査したのだ。
全身麻酔と聞くと、たいてい日本人は構える。
麻酔に対する考え方は、日本と米国(米国医学の影響を受けたインドも含む場合あり)とでは、かなり違う。
たとえば米国では、親知らずを抜くときさえ、全身麻酔をかけるのが普通で、実は夫アルヴィンドも、全身麻酔で抜歯した経験がある。ちなみに本人は、そのことを忘れていた。
出産の際も、米国では9割以上が麻酔を使っての無痛分娩だ。一方の日本は無痛分娩を善しとしない傾向が強く、あまり普及していない。
どちらにも、それなりのメリット、デメリットがあるので、わたしにはどちらがよいのかを判断できない。
個人的に、当然ながら痛いのは嫌だ。ただ、日本人が「痛みに耐えて産むのが善し!」とする美徳のようなものを持っていることには、納得できる。
前置きが長くなったが、わたしが受ける検査も、事前にネットで調べたところ、日本では麻酔をせずに行う場合が多いという。そして「死ぬほど痛い思いをした」というレポートもある。
迷いなく、わたしは全身麻酔を選択した。
さて、全身麻酔を受けるには、前夜10時以降から一切の飲食物を絶つ必要がある。これはたいした問題ではない。早めに夕飯をすませて就寝。
翌朝6時半に家を出て、7時半に病院到着。
そばに付添人が必要なことから、夫には仕事を休んでもらった。
夫が米国で歯科の全身麻酔を受けたときには、麻酔が切れたあとを見計らって「迎えにいけばよい」だけだったが、この病院では「四六時中そばについていろ」との指示である。
部分麻酔については経験があるが、全身麻酔は初めてだ。
ベッドに横たわりつつ、
「万一、わたしに何かあったら……。日本の母と妹をよろしく……」
と、演技じみた口調で夫の手を握る。全身麻酔が原因で命を落とす人は十万分の一の確率らしい。十万分の一、の場合を備えての、一応の、挨拶である。と、
「なに馬鹿なことを言ってるの! ところで、ミホの日本の銀行口座の番号とパスワード、教えて」
と返される。ちっ。
検査自体は15分程度ですむが、麻酔がきれるまでにさらに1時間ほどかかり、それ以降、身体がなじむまでに数時間かかることから、病院には午後3時頃までいるようにといわれていた。
なお、全身麻酔の副作用としては、頭痛、吐き気などがあるという。
夫はといえば、その辺にいる看護師さんを見つけるや、いちいち
「全身麻酔って、安全ですよね」とか「全身麻酔による事故って、どうなんですか?」
とか、心配をあらわに尋ねるものだから、しまいには看護師さんたちに、
「わたしはここに7年つとめてますが、事故は一度もありません!」
「全身麻酔はきわめてシンプルな処置です。大丈夫ですから!」
と笑われていた。
さて、9時ごろになってようやく検査室に運ばれる。ドクターのほかに助手が数名。ぺちゃくちゃと騒がしく世間話をしている緊張感のなさが、インド的だ。
さて、左手の甲の血管を通して、注射が数本、施される。3本目の注射を打たれてのち、ドクターがわたしにあれこれと話しかけてきた。
どんな風に意識が途切れるのか、自分で見極めたい(?)と思っていたのだが、自分の仕事について聞かれて、ライターで、インドの情報を日本に送って……みたいなことを話しているあたりから、記憶がない。
見事に、別世界へ飛んだ。
なんの予告もなく、自分の目は開いた。と、視界にぼんやりと飛び込んできたのは、夫の顔だった。
まるでテレビの医療物ドラマと同じである。視界がボワボワ〜ンとして、夫の顔が現れ、焦点が絞られる感じ。そこに夫がいるということが、異様にうれしく感じて、手を握り合ったりする。ドラマである。
たかだか検査のためなのに、なにかたいそうな手術を受けた後のような気分の盛り上がりだ。
意識は戻ったものの、めまいがするので、しばらくベッドで休息。3時ごろに病院を出た。
帰りの車の中では、さすがに気分が悪かった。というのも、町は渋滞。スピードバンプで上下の振動が激しいため、めまいと吐き気が助長されるのだ。
それでも眠っているうちに楽になり、家に到着する頃にはかなりおさまっていた。
夫はといえば、昨夜遅くにムンバイ出張から戻ったにも関わらず、今朝は早朝起床でわたしの病院の付き添い。しかも昼食を食べていない。
わたしはさすがにまだ食欲はなかったが、夫は軽くトーストと果物を口にしていた。
その後のことである。
夫が不調を訴え始めたのだ。
「ああ、頭が痛い、それに吐き気もする!」
いや、それはわたしの台詞やろ! と突っ込む間もなく、トイレに駆け込み、嘔吐する夫。
夫の背中をさすりながら、(この状況、なんか違うやろ!)と心中で叫ぶ我。
「頭が痛い! 吐き気も止まらない! いったいどうしたんだ。パンしか食べてないのに!」
うなりつつ、ベッドに横たわる彼。
おいおいおい、ちょっと待ってよ! 頭痛、吐き気は、わたしの役目! 具合が悪くなるべきは、わたしなんですけど! ベッドに横たわって休息すべきは、先ほど全身麻酔を受けたわたしなんですけど!
この不条理に、もはや笑いがこみ上げてくる。
結論からいえば、その後、わたしは1時間ほど仮眠をとった後、気分もすっかりよくなったので仕事に戻ったのだが、夫はと言えば3時間ほども寝ていたのだった。
彼曰く、
「僕は、ミホの苦しみを引き受けたんだよ」
もしそれが真実なら、なんて美しい愛の物語だが、どうにも違うやろ。妻の全身麻酔が心配で、疑似体験状態に入っていたのだろうか。どれだけ繊細な男であろう。
わたしはといえば、夕飯を作り、普通に食事をし、薬を飲み、もはや普通に夜を迎えたのだった。夫にはお粥を作って、与えた。そして思った。「わたしは、病気を、できんな」と。
「自分の身は自分で守るべし」を再認識する一日だ。
それにしても、我々のライフとは、なにゆえこんなにも「コメディ色」が強いのだろうか。母の緊急入院時にしても然り。
深刻に、なればなるほど、笑える事態が発生する。インドだからか? それとも、わたしたち、ならでは?
よくわからんが、今年も朗らかな幕開けである。いい一年に、なりそうだ。
★ ★ ★
本日、南インドは祝日だ。キレイなブログにも書いたので詳細は省くが、数日間に亘って収穫を祝う祭りが行われているのである。
5年も住んでいながらいい加減な話だが、年中、いろいろな宗教のいろいろな行事があるゆえ、覚えられないのである。というか、覚える気がないのである。いや、覚えても忘れるのである。
さて、本日は土曜日だが、祝日につきメイドも休み。朝から静かにのんびりと過ごそう……と思いきや、10時ごろから上階で激しい槌音。これがまた、ガンガンと頭痛を招くほどに響く。
業を煮やして上階に電話をすれば、「風呂場の水漏れがあるので、タイルの張り替える作業をしている」とのこと。
なにも祝日にやらなくてもと畳み掛けると、平日は仕事で不在だからと返される。水漏れがやがて我が家に波及すると思えば、やってもらっておくにこしたことはないのだが、しかしうるさい。
我が家はデュープレックスで吹き抜けになっている上、大理石やタイルの床であることから、音の反響がすさまじい。
階下で歌うと、まるで「銭湯で歌っているかのよう」に、エコーのきいた、いい歌声になるのだ。
そんな次第で、ハンマーのガンガン打ち鳴らされる音が家全体に響き渡り、夫と二人で庭に避難。
幸いにも、夢のように心地のよい天候である。
太陽の光を身体に受けつつ、暑くもなく寒くもなく、青空は澄み渡り、何匹もの蝶が乱舞し……。
さて、果物を食べながら、新聞を広げれば、あれこれと、新しい知らせ。
我が家のすぐ近所にまたしても、スーパーマーケットがオープンした。わたしたちがこの家に移ったのは2007年3月。
その間に、いったいいくつのスーパーマーケットがオープンしたことか。
しかし、結局はローカルの食材が揃う昔ながらのTHOM'Sや、安全な野菜を販売するNAMDHARI'Sばかりを利用している。
新しいスーパーマーケットを使う機会は少ない。
それは、わたしたちの食生活が、極めてシンプルに回帰しているからでもある。
同時に、新しいスーパーマーケットの中途半端な存在感が、買い物をしづらくしている。
具体的にどういうことなのかを書き始めると長くなるので書かぬが、ともあれ、新しければよいというものでもない。
ところで経済誌mintの土曜版、LOUNGEを開いて、思わず目を見張った。
南ムンバイのコラバに、LE PAIN QUOTIDIENがオープンしていたのだ。
LE PAIN QUOTIDIENとは、ベルギー発のカフェ&ベーカリー。
わたしたちがニューヨークで定宿しているのは、カーネギーホール斜向いのホテル。
そこから2ブロックの場所に1軒あることから、しばしば朝食に利用している店でもある。
パンやスイーツ、サンドイッチなどヘルシーな料理がそろっており、雰囲気もいい。
マンハッタンを訪れるたびに、店舗を増やしているのに気づいていたが、ムンバイにも登場していたとは。
思えば昨年の後半は、ムンバイに足を運ぶ機会がなかった。
実は夫の仕事がムンバイではなくバンガロール拠点になると確定したのが昨年の中頃。
それまでは、いつムンバイ&バンガロール二都市生活になるやもしれず、実は家財道具もムンバイのストレイジルームに預けたままだ。
あれらも、なんとかせねば。
ムンバイとはバンガロール以上に混沌度高く、しかし住めば都。それなりに濃厚で楽しい日々を過ごしていたものだ。
あの、50メートルほど歩いただけで、1キロほども歩いたような疲労感に襲われるコラバの繁華街を、急に歩きたくなった。
そして、LE PAIN QUOTIDIENやら、INDIGO DELIやら、THE TAJ MAHAL PALACEのドアをあけて、別世界にエスケープするのである。
複数の異なる世界が共存するような、あのあたり……。
そういえば、スターバックスがついにはインドに進出するらしい。
わたしたちが移住してからも、幾度かそんな噂が流れたが、実現していなかった。
タタ財閥(タタ・グルーム)傘下のタタ・コーヒーとの提携らしい。
ちなみにタタ・コーヒーは、米国の「エイト・オクロック・コーヒー」も傘下に収めている。
インドと言えば、紅茶の産地として世界に知られているが、南インドはコーヒー豆の産地がある。
庶民もまた、コーヒ好きであるのだ。
もっとも、ブラックで飲むというよりは、チャイ同様、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒー牛乳であるが、それがまた美味なのだ。
昨年訪れたクールグのコーヒー農園リゾート、オレンジカウンティ。あのリゾートのほど近くに、タタのコーヒー農園があった。スターバックスはコーヒー豆の生産にも関わるとのことである。
ちなみに最初はやはりタタ・グループのホテルであるTAJ系列のホテルに、スターバックス店舗を展開するという。
インドには、デリー拠点のBARISTA、バンガロール拠点のCAFE COFFEE DAYを中心に、外資系ではCOSTA COFFEEやらなんやらが、あちこちに進出している。
ちなみに、BARISTAはタタ系列だったが、数年前にイタリアのラバッツァに買収されている。
インドにおいて、これらコーヒーチェーンは、大げさではなく、「若者文化と生活習慣を大きく変えた場所」だと思う。
多分、10年くらい前までは、インド都市部では、若者たちが健全に集って遊べる場所が極めて少なかったと思われる。ショッピングモールやカフェが誕生したことで、「デートの場所」も増えた。
5年前にはまだ、若い男女が二人でテーブルを囲んでいる様子を目にすると「妙に目立っていた」気がするが、今では普通の光景になっている。
なにしろ25歳以下の人口が国民の半数以下を占めるインド。その中で、カフェを利用できる層は限られているとはいえ、しかし膨大な数でありポテンシャルである。
十数年前に一度進出した時には、インドの食文化その他への冒涜だとして、一度は撤退していたKFC。ここしばらくは、「ファミリーレストラン」としての位置づけが定着、バンガロールだけでも店舗を次々に増やしている。
あまりにも、さまざまなことが急激に移り変わり、そしてなじんでいるので、ずっと以前からこんな感じだったと錯覚してしまうが、この、わたしが知る限りにおいての、わずか5年間においてすら、ライフスタイルの変貌はすさまじいものだ。
インドのチェーン店以外での、その他のカフェ、についても書きたいことがあれこれとあるのだが、今日のところは、この辺にしておく。
■クールグ。コーヒー農園のリゾートにて:昨年の記録 (←Click!)
インド発、元気なキレイを目指す日々(第二の坂田ブログ)
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長編レポートだが、最後までじっくりと、読んでいただければと思う。![]()
NEW ARK MISSION OF INDIA。HOME OF HOPE。昨日訪れた、慈善団体である。
どことなく「悪ガキ」、いや「少年」の面影を残すこの男性。43歳のラジャが、この慈善団体の創設者だ。
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わたしが地道ながらも慈善活動に関わりを持つようになって、3年がたつ。
OWCが支援する25の慈善団体の中に、この団体があったことは、もちろん知っていた。気にはなっていたものの、今まで訪れる勇気がなかった。
なぜなら、ブローシュアやウェブサイトで見られる彼の活動が、あまりにも、すさまじかったからだ。
昨年の後半、二度に亘って行ったチャリティ・ティーパーティの寄付金を託す先を検討していたところ、OWCの会報誌に、小さなコラムを見つけた。
2カ所の慈善団体が、寄付の依頼をしていた。その一つが、NEW ARK MISSION OF INDIAであった。
ついにはここへ、訪れるべきなのだろうと閃き、すぐに団体へ電話をしてアポイントメントを取り付け、賛同者の方々に連絡したのだった。
バンガロールにおける慈善団体訪問の、わたしにとってはちょうど10カ所目である。
訪問の前日。近所にオープンしたばかりのスーパーマーケットがオープニングセールを行っていたので、そこで買い出しをすることにした。友人二人が付き合ってくれ、とても助かった。
表示されている価格を電卓で計算しつつの買い物だったが、どうやらかなり割引されてたらしく、約15000ルピーを目安に計算していたのだが、実際は13000ルピー。
更に2000ルピー分を買い足せたのに加え、10000ルピー以上を購入したお客様へのプレゼント! で圧力鍋などもプレゼントしてもらい、なにやらラッキーである。
さて、訪問当日の昨日の朝。HOME OF HOPEはバンガロール市街北部郊外の、わかりにくい場所にあるらしいことから、アウターリングロードとヘナーロードの交差点で、他の参加者7名と待ち合わせる。
地図を頼りに待ち合わせ場所を決めたが、メトロの工事が進められているエリアで、激しい砂塵と交通量。ともあれ、路肩に車を停めて待つ。
早めについた友人らとおしゃべりをしているとき、一人が言った。
「わたしたちって、仮面ライダーみたいですよね」
か、仮面ライダー……?
訝しく思いつつも、条件反射で、「へん〜しん! とぅ〜!」のポーズをしてしまう。ちょっと待て。それを言うなら、「タイガーマスク」やろ!
わたしだって、ネットで日本のニュースは得ている。
昨今、タイガーマスクを真似て、孤児院に寄付を届ける人が続出しているという不思議現象のことは、不思議に思いながら読んでいた。
さて、道に迷いつつも、なんとか目的地に到着。周辺はまだ開発が進んでいない、がらーんとした広大なエリアに、その施設はあった。
スタッフの人々に歓待されて、中へ入る。
このNEW ARK MISSION OF INDIAは、冒頭で紹介したラジャによって、1997年に始められた。路上生活をしている貧困層の中でも、健康に支障があり、身寄りがない人々を、「引き取って」、ここに収容している。
わたしが、なぜここを訪れる勇気がなかったかといえば、ブローシュアやサイトで見られる「瀕死の人々」の様子が、あまりにも、無惨だったからだ。
書くのも憚られるが、敢えて書くので、飲食中の方は、ご注意を。
たとえば、手足の先端が腐食し、ぼろぼろになっている人。頭部の傷口から何匹もの蛆がわいている人。糞尿まみれで、転がっている人……。
そんな人々を、ラジャは自ら抱きかかえ、自分たちの車に乗せて、この施設まで運び込むのである。さらには、ラジャ自身が、傷の手当をしている様子の写真や映像もある。
その様子がまた強烈で、とても直視できない。
人は、こんな悲惨な状態になっていてもなお、生きていられるのか……と、その生命力の壮絶さに、言葉を失うほどなのだ。
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もっとも、そのような資料には「極端なシーン」だけが集められており、もちろん施設を訪れてもその状況が展開されている……というわけではないことは、理解している。しているがしかし、気構えてしまう心を抑えられずにいた。
現在は350名がここで寝食を共にしているという。
そして一年のうちに、約100人がここから天に召されるという。
きちんと、人間として、丁寧にみとられ、丁寧に火葬される。
元気な人は社会復帰をするとのことだが、しかし収容されている人の7割が精神病疾患者であり、手足を失った身体障害者が多いことから、その数は少ないと察せられる。
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まずはオフィス内で、ラジャにインタビュー。わたしは彼がなぜ、このような活動をするようになったのかに関心があった。
彼は、彼自身こそが、かつては路上生活者であったという。
貧困層に生まれ、子どものころから、親に見捨てられ、愛情を受けることなく育った彼。子どものころから、盗みを働くなどは日常だった。
あるとき家を飛び出し、2年間、ホームレスとして暮らす。その間は、盗み、ギャンブル、そして飲酒が日常で、荒廃した日々だったという。
挙げ句の果て、刑務所に入れられる。狭い牢獄に、7、8人が閉じ込められての、劣悪な環境。そんな中、彼は、原因不明の高熱に襲われる。
10日ほども熱が続いたが、薬を与えられることもなく、意識は朦朧としていた。彼曰く、
「そのときに、僕に一度目の奇跡が起こったんです」
高熱にうなされながら、彼は強く強く、神に祈ったのだという。
神様、ぼくはもう、悪いことはしない。絶対に、更生する、だから、ぼくを殺さないでください……と。
「心の底から神に祈ったんです。そうしたら、2時間後に、熱が下がったんです」
「2度目の奇跡がまもなく、起こりました。クリスマスの前に、どうにか釈放してくださいと強く願ったら、クリスマスの日に釈放されたんです」
こうして、彼の新しい人生が始まった。
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彼はオートリクショーのドライヴァーとして、新しい人生を踏み出した。結婚をし、子どもにも恵まれた。しかし彼は、心の中で「自分よりもより、苦境に立たされている人々の役に立たねば」との思いが、強くあったという。
オートで町中を走れば、瀕死の人たちの姿を随所で見かける。彼らをなんとかしたい。なんとかできないものか。
「また、神様に祈ったんです。ぼくは苦しんでいる人を助けたいと。そうしたら、2年後、それが実現できることを思いついたんです。瀕死の人たちを、オートに積んで、自分の家に連れて帰ったんです」
一間しかない自宅の、その軒先の狭いスペースに、4人の路上生活者を連れ帰り、食事を与え、面倒を見る日々が始まった。
「この年に、僕がこの活動を始められたことも、運命だと思っています。1997年は、マザーテレサが亡くなった年なのです」
「妻は最初、怒っていました。ぼくは仕事にいかねばならないので、結局彼らの面倒は、彼女が見なければならないんですから」
しかしそのうち、妻も夫の思いを理解し、前向きに手伝ってくれるようになった。
![]()
現在は、あらゆる人々の寄付によって、この施設は運営されている。なお、政府からの支援は1銭たりとも、いや1ルピーたりとも、ないという。
「ぼくは、人にお金の寄付を頼むのが、いやになってきました。なので今はこう祈るんです。運営資金がきちんと入ってきますように。そして入って来た資金の中で、なんとかやりくりできますように……と」
この言葉は、先だって数回に亘って訪れた、BANGALORE EDUCATION TRUSTのナガラジ氏も口にしていた。人にお金の寄付を乞うのが辛いと。
その心情は、想像するに余りある。自分らは私欲をばっさりと捨てて、社会のために尽くしている一方で、他者へお金を乞うこということに。
オフィスにて、彼の活動をまとめたDVDを見せてもらった。彼が「通報」を受けて、街へ人々を迎えにゆく様子などや、瀕死の人々を治療する様子などが、映し出されている。
中には正視できないシーンもあって、短いフィルムながらも、疲労困憊となる。
映像の中では、ぼろぼろだった人が、看護を受けて生まれ変わったようになる様子を、"BEFORE" "AFTER"という前後の映像で、対比している。
まるでダイエットや整形の広告のようでなにげに笑えるが、いや笑えない。
だからといって、泣けてくるような、というわけでもなく、ただただ、人間の命のありようのすさまじさ、を叩き付けられる感じである。
なにしろ、「拾われた瞬間」は、路上に寝転がり、髪の毛はぼさぼさで、服はぼろぼろで、耳の後ろの部分が大きくただれて、蛆がたいそうわいている状況の女性が、ラジャによって応急処置をほどこされたあと、
「24時間後」のキャプションとともに、笑顔で直立しているのだから、驚愕する。なんて、立ち直りが早い!
もちろん、一方では治療の甲斐なく死んで行く人々も大勢いる現実。しかし遺体は丁寧に白い布でぐるぐるまきにされ、火葬されている。
そうして、きちんと葬られている、ということだけでも、ありがたいことなのだ、ということに思いを馳せる。
何人もの"BEFORE" "AFTER"の映像を見ながら、思うのだ。
その逆もまた、ありき。
人は、今、どんなに健全であっても、いつどんなことがきっかけで、ぼろぼろに転じるかわからぬ。その可能性を、わたしたちは誰もが、常に抱えているのだ。
路上生活者の中には「記憶喪失になった女性」も少なくないらしい。旅行、あるいは出稼ぎなどでバンガロールを訪れ、なにかのはずみで記憶を失い、路上生活者になってしまう。
ある女性は、保護されてしばらくして、自分の記憶を取り戻し、タミルナドゥの出身で、自分の家の電話番号も思い出して、夫が迎えに来てくれたという。
彼女は「きちんとした家庭の夫人」であったという。
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映像を見た後、ラジャにいくつか質問をした。たとえば彼は、メディカルの訓練を受けたのか、といったことなど。
驚くことに、彼は医学の心得など、なにもないという。
ただ、見よう見まねなのか、自分で治療しているのだ。もちろん、ここには24時間でナースが1名、待機しており、週に一度、ドクターと精神科医が往診に来てくれるという。
ある程度の応急処置については、ドクターから教わることはあるのだろうにせよ、自ら処置にあたるその果敢さにも脱帽だ。
もっとも、重症患者については、ここから救急病院に転送するらしい。その資金は、もちろんこの団体が出すわけで、ドクターが無償で診てくれるわけではない。
救急車代わりにつかっている車が現在4台あるというが、いずれも寄付されたもの。これでは足りないのだという。
なお、矛盾した話に思えるが、警察が彼らに電話をして、瀕死の人々の保護を依頼するのだという。それだけ、頼られている、あるいは他に彼らを引き取るすべがない、ということであろうか。
「死を目の前にした人たちには、食べたい物を、食べさせたいんです。彼らのほとんどがノンヴェジですから、肉も食べますよ。ある人は、最後にマトンビリヤニが食べたいというし、そう、果物を食べたがる人も多いです。ブドウとか、リンゴとか……。あと、最後にペプシを飲んでみたい、という人もいますよ」
最後の、晩餐。
もう本当に、ぐっとくる。
いろいろな思いが、巡り巡って、なんだかもう、気持ちがいっぱいいっぱいである。
「僕は、戦場に飛び込んだ兵士のようなものなんです。もう、一生、後戻りはできません。ぼくはここで生涯をすごします。ただ、ここで闘い続けるには、周囲の人々の祈りや助けが必要なんです」
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さて、ひとしきりラジャの話を聞いた後、施設内を巡る。このオフィスがある施設は女性専用。すぐ近くに子供用のビルディングがあり、少し離れた場所に、昨年オープンしたばかりの男性専用の建物があるという。
左の写真は、わたしたちからの寄付の品。昨日購入したもの以外にも、他の方からの不用品などが集められた。右の写真は、時折ここを訪れているという韓国人男性、ソンさん。教会の関係者だという。
わたしたちを見るなり、満面の笑顔。わたしたちが日本人と知るや、いっそう顔をほころばせながら、
「おお! お隣さんではありませんか! ようこそいらっしゃいました」
と歓迎してくれる。彼はラジャの活動を心から敬意を持って見守っているようで、彼自身もヴォランティアで訪れているようだ。
周囲を見回せば、うつろな目をした女性たちが大半で、心塞ぐ思いであるが、ソンさんの笑顔がしみた。
当然ながら、ラジャの了解をとり、施設内の写真を撮影する。うつろな目をした女性たちにカメラを向けるのは憚られたが、目がしっかりしている、つまり正気の人たちには、目とゼスチャーで、撮影してもよいかと尋ねる。
写真を撮られるのが好きな人が多い国である。
何人かの女性たちが近寄って来る。
笑顔を見せてくれる女性には、ほっとする。
右の写真の、体格がよく、いかにも元気そうに見える彼女はしかし、HIVポジティヴなのだという。
彼女は自分から言葉を発し、ラジャや他の人とも「言葉」でコミュニケーションを図っている。
しかし、そのような人の方が、ここは少ない。
大半は「恍惚の人」である。
むしろその方が楽なのか、イスがあっても、地べたに寝転がる人たちが多い。
楽、というよりはもう、久しくの習慣になっているのかもしれない。
左の写真の、ピンク色の服を着た女性もまた、HIVポジティヴだという。
彼女の表情は一切動かず、目もうつろだ。
とはいえ、最早、喧噪の路上に放置されているわけではない。
最低限の衣食住が保証されている場所で、神のご加護と人々の救いを得て、ここにいられる。
「まだいいほう」なのだろうか。
まだいいほう、などという言葉を、わたしが軽々しく書き記す立場ではないのではあるが。
ここは女性たちが眠る場所。たとえボロボロでも、マットレスがある。ベッドの上で寝られる。室内は、清潔に整えられている。
この、木でできたオブジェのようなものは、ラジャの演台だという。ここで礼拝のようなことを行うのだという。
GOD LOVES YOU.
神は、あなたを愛している。
……さ、あらば、なぜ?
この女性は、わたしたちがオフィスでDVDを見ている間、運び込まれて来たようだ。妊娠6カ月の彼女。路上で暮らしていたらしい。
目立った外傷はないが、手足の皮膚が著しく荒れている。蚊に刺されたあとなどが、無数に残っている。
ドアのあたりでたたずんでいた女性。わたしに向かって、微笑みかけてくれた。それだけでもう、ほっとする。
これらは施設内の車。現在、ラジャは大きな車を必要としている。彼から「欲しいものリスト」を聞いたので、それをここに記しておきたい。
日々の食料品や衣類、現金での寄付はもちろん望まれているが、それ以外に欲しいものとして……
・十数名が乗れる小型バスのような車。
・貨物用のコンテナ2つほど(改造して家にする)
・大画面のテレビ(あるいはプロジェクター)
・350名にスピーチが行き届くスピーカー(アンプ)
このごろのバンガロールは早くも夏の匂いがするが、このあたりは日射を遮る木々もなく、日差しはより鋭い。青空がまばゆい。
この気候のおかげで、たとえ路上で暮らしていても、命を落とさずにすんだ人が多いのではないか……とさえ、思わされる。
さて、次は、すぐそばにある子ども向けのビルディングへ。赤ちゃんから16歳までの、35名の子どもがここで暮らしているという。
大半の子どもは学校に行っているが、小さな子供たちが何名か、残っていた。ちなみにカルナタカ州の公立(州政府運営)の学校は、以前も記した通り、非常に環境が悪いとのことで、私立に通わせているという。
「子供たちは、教育費がかかるからたいへんです。大人は食べ物を食べさせておけばいいですが、子どもは学校にいかせなければなりませんからね。たとえば一人のこどもに1カ月1000ルピー、いや500ルピーを支援してもらえるだけでも、本当に、助けになるんですよ」
と、ラジャ。
うつろな女性たちの目をばかり見て来たあとだということもあり、子供たちの鋭くも元気な視線と笑顔がうれしい。
古いサリーが天井から吊るされている。中をのぞくと赤ちゃんが。ゆりかご代わりである。そういえば、ムンバイのバス停で、やはりホームレスの女性がこうやって、古いサリーに赤ちゃんを吊るしていたのを思い出す。
あるいは先ほどの女性のように、妊娠中の女性が収容され、ここで出産したその子供たちだという。
ここにいる子供たちにHIVポジティヴはいないとのことだが、精神障害を抱えている様子の子どもも何人か見られた。
彼らが着用しているのは、すべて外部からの寄付の品々。ちなみにラジャ自身も、古着を着ているのだという。一見きちんとして見えるが、この少女の着ている服のように、ジッパーが壊れているものもある。
せめて上のフックだけでも、付け替えてあげたい衝動にかられる。
わたしを、バッグを、カメラを、べたべたと触って、人見知りもせず、笑顔で。
衛生面を考慮してなのだろうか、男女ともにベリーショートだ。
洋服で判断せねば、男の子なのか女の子なのか、よくわからない。
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しばし子供たちと過ごして、気持ちを紛らわせたあと、再びオフィスのあるビルディングへ戻る。
現在改装中のキッチンなどを見せてもらう。
なにしろ350人もの大所帯だ。
食堂並みの設備が必要であろう。
主食のチャパティに使うATTA(無精製の全粒小麦粉)だけでも、1カ月に3トン必要だという。
1日当たり100キロ。
わたしたちが、「大量に買い込んだ」気がした大袋のチャパティは、わずか1〜2食分程度だったか。
間断なき支援が望まれることは、想像に難くない。
さて、ラジャやスタッフたちと別れ挨拶を交わす。
「この次は、男性たちも連れて来てください」と言われる。
※バンガロール在住の日本人男性の方々、近々ご一緒しませんか?
さて、帰路、男性専用の施設に立ち寄った。
まだでき上がって1年たらずというだけあり、全体にきれいだ。
屋外のスペースも広く、日よけもほどこされ、風が通り、心地のよい環境ではある。
しかしこちらの男性たちもまた、精神を病んでいる人が多いようで、みな、黙り込んでいる。
たとえば町中で、貧しくても元気で、仲間同士でのおしゃべりに興じている笑顔の人々を見慣れているだけに、この無口な静けさが異様な光景に思える。
男性は女性よりも身体障害者が多いらしい。何人かは一隅に備えられたテレビを見ている。
テレビを見ている人の中でも、「気が確かそうな人とそうでなさそうな人」が混在している。しかし互いにおしゃべりをする様子はない。
こちらに目を合わせて、互いに合掌をして挨拶ができる人もいる。そういう人は、かすかに表情を動かしてくれる。
青いイスに座った足の悪いお兄さん、そしてわたしの隣にいるお兄さんは、笑顔を見せてくれた。
老人介護施設に久しく預けられていた今は亡き祖母を、見舞ったときのことを思い出した。
わたしを誰ともわからず、自分をだれともわからず、ただ、プラスチックのコップを、テーブルに打ち付け、表情がなく、目は物体のように、そこにあるだけで、風景を反射するばかりのように見えて。
笑顔というものが、人が人として、いや、人らしくあるために、どれほどに、大切な物なのであろうかということを、今日、心の底から、痛感した。
左上の写真は、身体が健常な、つまり自分でベッドメーキングができる人たちの部屋。右上の部屋は、身体障害者の部屋。マットレスはビニール加工がされている。
写真ではきれいに見えるが、右の部屋は、糞尿の匂いが漂っている。掃除をしても、匂いがしみつくのであろう。
敷地内は、現在も造園が進められている。ブドウ畑が作られて、バナナの木も植えられている。
鳥やウサギなど、動物たちも飼育されている。精神科医からのアドヴァイスだという。心を病んだ人たちにとって、動物たちの存在は大切なのだ。
いや、心を病んでいない人たちにとっても、動物たちは。
アヒルのまばゆい白さが、目にしみる。
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まだまだ、書き残しておきたいことはたくさんあるのだが、今日はこのへんにしておく。今まで、いろいろな慈善団体を訪問してきたが、やはりこの団体が最も「死」に近い場所だった。
思うところを総括できるほど、今は考えがまとまっていないが、それにしても、インド。
日常に、生死が見えている。
それを、看過することもできるし、直視することもできる。それを、どう自分のライフに反映させるかは、個々人の思うところ次第だ。
わたしは、自分がなにをどうしたいのか。お金を、行動力を、気持ちを、どのように使うべきなのか。
改めて、考えさせられている。
わたしは特段、慈悲の心に富んでいるわけでも、ヴォランティア精神が強いわけでもない。一カ所に奉仕を続けるつもりもないし、私利私欲が浅いわけでもない。
だからといって、居直って、身近な悲劇を看過することもできない。人はそれぞれに、それぞれができる形で、やるべきと思ったことを、やっていけばよいと思う。
だから、誰かに何かの行動を強要したり、無理に勧めたりするつもりはない。
ただし、関心はあるけれど、ひとりでは踏み出せない、踏み出すきっかけがない、という方には、お手伝いをしたいと思っている。共に、現状を、見に行きましょう、この目で確かめてみましょう、と、思う。
といっても、背中をドンと押すのではなく、人差し指でそっと、触れる程度の後押しではあるけれど。
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バンガロールに住んでいる方々。
今回の慈善団体に限らず、これまでわたしが訪れた場所も含め、自分自身の目で確かめたいという方がいらっしゃれば、どうぞこの、ささやかな活動に参加なさってください。
あくまでも、自分の心と身体と時間に余裕があるときで、いいと思います。
「だれかのため」を超えたところの「じぶんのため」にもなるような、出会いがあると思います。
チャリティ・ティーパーティや団体訪問に参加できずとも、寄付金や寄付の品をお預けくだされば、必ずお届けします。
活動に賛同いただける方には、随時メールにてご連絡をしますので、その旨、こちらまで、お知らせください。
また下記のブログには活動の記録を残しているので、そこをご覧いただければとも思います。
■MSS: Muse Social Service インド発 地域社会とのコミュニケーション
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みなさんそれぞれに、思うところはおありだったろうと思う。
ともあれ、帰路にはみなで近場の韓国料理屋に立ち寄り、もりもりとランチを食べたのだった。
元気に食事ができることのありがたさを、噛み締めるように。
みなさま、お疲れさまでした!
ちなみに韓国料理店については、「キレイなブログ」に記しているので、どうぞご覧くださいまし。
インド発、元気なキレイを目指す日々(第二の坂田ブログ)
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