観衆の代わりに、無数の星条旗が翻っている。波乱の末に誕生した新政権。2000年。ブッシュ対ゴアの選挙時を、さらに上回る混沌だった。20年前は、まだソーシャル・メディアが誕生していない。今思えば「牧歌的」でさえあった。
アメリカ合衆国の、新たな章のはじまり。大小の諍い少なく、平和的協調が増え、子どもたちが未来に希望が抱けるような世界に導いて欲しいと、切望する。
* * *
まるで昨日、印刷所から刷り上がりが届いたばかりのような新鮮さで、わたしの目の前にある、『muse new york』2001年春号、ワシントンD.C.特集。
ちょうど20年前の今ごろ、取材、編集をしたものだ。
1年間の語学留学予定で1996年4月にニューヨークへ渡った。3カ月後の七夕にアルヴィンドと出会い、その後、現地採用で日系出版社に就職し広告営業をした。
そのうちにも、ニューヨークで独立して働きたくなった。就労ヴィザを自給自足するために、1997年7月、Muse Publishing, Inc.を起業。その年の終わりに晴れてH1Bヴィザを獲得し、1998年から始動した。
ビジネスが軌道に乗り始めたのを機に、当時は数少なかったフリーペーパーを発行開始した。1999年。DTP(デスクトップ・パブリッシング)黎明期のことだ。思い切って投資したパソコン環境。Macの、確かPowerPCの4Gか5Gだった。
日本語環境にするのも大仕事。クオークエクスプレス、フォトショップ、イラストレータをインストール。すべて独学だった。3号目まではまだデジタルカメラを持っておらず、紙焼きをスキャンして入稿していた。
写真、文、広告営業、デザイン、印刷手配、そして配達……。計10,000部。20箱近くの段ボールをレンタカーのトランクに詰め込み、自分で配達した。マンハッタン及びニュージャージー、コネチカットのスーパーマーケットや日本食料品店、レストランなど。
あのころの、坂田美穂の情熱の源はなんだったろう。このフリーペーパー。利益はなかったのだ。ないどころか、最初は赤字だった。
「利益の上がる仕事の合間」に「趣味」で作っていた。後半でこそ、広告費で印刷費が賄えるくらいになっていたけれど。
それでも、作りたかったのは、損得勘定を超越したところにある、仕事では得られない自己実現の場を、持っていたかったからだ。計20ページの薄い冊子ながらも、表紙から裏表紙、隅から隅まで、丁寧に、編集されている。「雛形」などない。時間はかかるけれど、間違いなく、自分の中の創造力が鍛えられた。
ともかく、編集作業が、楽しかった。
30代前半までの、東京、そしてニューヨークでの日々は、わたしにとっては「筋肉養成ギプス」を装着していたようなものだろう。
だから今、何をやっても達成感浅く、いつまでも模索が続いている。吟味することなく、なんでも簡単に発信できるようになった世界の、利便性をありがたく思う一方で、何かが違う……という思いが拭えない。手書きに戻りたくなる自分の心境には理由がある。
* * *
アメリカ合衆国あっての、今のわたしの人生だ。
1985年。大学2年の夏、初めて日本を飛び立ち、ロサンゼルス郊外で1カ月間ホームステイをしていなければ、わたしは福岡で、高校の国語の先生をしていただろう。
この2001年春号を出版したとき、わたしはニューヨーク、夫はワシントンD.C.に暮らしていた。二都市生活の最中だった。この数カ月後、6月に米国で結婚し、7月、初めてインドの土を踏んで、彼の故郷ニューデリーで結婚式を挙げた。そして、2カ月後の9月、米国同時多発テロ。わたしのD.C.への移住……。
今思えば短い間に、本当にいろんなことが起こった。あくまでも自分比だが、若いころの1、2年は、本当に、濃くて意義深い。今では考えられないほどの充実と進化を得られる。
20代、30代の人たちには特に、この先行き不透明な世界でも、前向きにエネルギーを発揮してほしいと、切に思う。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。