ハリヤナやビハール、西ベンガルなど、北インドの複数の州において、今日は「バサント・パンチャミ」と呼ばれる春の到来、そしてサラスヴァティー(サラスワティ)を祝するお祭りだ。年中、温暖な南インドの州では、あまり馴染みがないが、それでも朝から、WhatsAppを通して、友人から、 “Happy Basant Panchami!”のメッセージが届いている。
個人的に、サラスヴァティーは好きな神様で、ご縁もあることから、家にはラジャ・ラヴィ・ヴァルマが描いた麗しい絵を飾っている。2枚目の写真がそれだ。1枚面。サンダルウッドのサラスヴァティーは、わたしが移住した当初、著名な歴史学者であり、文化人類学者だった親戚のLotika Varadarajanが、偶然にも贈ってくれたものだ。
サラスヴァティーは学問や芸術を司る、弁舌と知恵の女神で、4本の腕を持つ。1組の腕には数珠とヴェーダ(聖典)、もう1組の腕に弦楽器のヴィーナ(琵琶の起源)を持っている。MUSEとは、ギリシャ神話で9人の女神の総称だが、サラスヴァティーは一人でそれを引き受けている感じだ。
サンスクリット語でサラスヴァティーとは「水(湖)を持つもの」の意。水と豊穣の女神でもあることから、川辺や湖畔にたたずむ姿が描かれる。白鳥あるいは孔雀が乗り物で、白い蓮華に腰掛けている姿は、いかにも優美で美しい。また、サラスヴァティーはゾロアスター教のアナーヒターと同起源でもあるそうだ。
3枚目の写真。インディラ・ガンディと写っているのは、夫の母方の祖父。実業家であり、政治家でもあった祖父は、鉄鋼会社、製糖会社など複数の会社を創設した。現在は、いずれも夫の従兄弟が継いでいるが、製糖会社の名前が「Saraswati Sugar Mills」。
我が夫曰く、インドの実業家の多くは、富の女神ラクシュミを祀る人が多いが、祖父は知恵や芸術を重じていたが故、サラスワティを冠していたという。祖父の書斎には、タゴールの石膏蔵も掛けられていた。去年、義父の他界時に家の片付けをした際、撮影した。4枚目の写真がそれだ。
印パ分離独立の直前にラホールからデリーに移った夫の祖父の人生は、あまりにも波乱とドラマに満ちており、十分、映画になるストーリーだ。祖父のことについても、いつかきちんと記録に残しておきたいと思う。
転じて、日本とのご縁。七福神の一人である「弁財天」は、サラスヴァティーが、その起源。大黒天、毘沙門天も、ヒンドゥー教の神様が起源である。
5枚目以降の写真は、10年前に一時帰国した際、実家の近くにある名島神社を訪れたときのもの。わたしが子どものころから、両親が毎月のように詣っていた場所だ。この名島神社に隣接する宗栄寺に、弁財天が祀られている。そもそもは、名島神社とともに祀られていたが、明治の神仏分離令(←この間の仏教セミナーで言及したばかり)により、「宗栄寺」に分けられたという。
弁財天の真言である「おん そらそばてい えいそわか oṃ sarasvatye svāhā」の「そらそばてい」とは、「サラスヴァティー」のことである。
弁財天ではまた、蛇も祀られている。ゆえに巳年のわたしとしては、ここにもまた少なからず、ご縁がある。
そして一隅にある宝篋印塔(ホウキョウイントウ)。これは、インド史上唯一、仏教を国教としていた時代の統治者、アショーカ王に縁がある。これもまたセミナーで触れたばかり。書きはじめると尽きないので割愛するが、ともあれ、歴史を遡れば、日印の繋がりの多さ、地球の丸さを思い知る。
最後の写真は、名島の海。昭和6年(1931年)9月17日。今からちょうど90年前。リンドバーグ夫妻が世界各国親善訪問飛行の途中、かつてここにあった「名島水上飛行場」に飛来した。
幼いころのわたしは、水平線を見るのが好きだった。太陽が照りつける水面に、トビウオが飛ぶさまを、眺めたころの懐かしき。
うみは ひろいな 大きいな 月がのぼるし 日がしずむ
うみはおおなみ、あおいなみ ゆれて どこまで つづくやら
うみにおふねを うかばして いってみたいな よそのくに。
海の向こうにある世界を想像すらできず、ただ水平線を眺めていたころ。子どものころの好奇心を満たしながら、今のわたしは異郷で生きている。しかし海を越える以前から、異郷の文化は、ひどく身近にあったのだ。
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