2014年にバンガロールでサーヴィスを開始したFreshMenu。インドのフード・デリヴァリーサーヴィスのパイオニアともいえるオンライン・キッチンを立ち上げたのは、夫の元同僚の妻、ラシュミ、写真に写っている女性だ。ここ数年で、瞬く間に事業は拡大され、現在ではデリー首都圏やムンバイでも事業を展開。バンガロールには20を超えるキッチンを持つ。
最後にラシュミに会ったのは彼女がこのビジネスを始める前。長女を出産して間もないころ、我が家のパーティに来てくれたのが最後だった。今回、ラシュミから日本の家庭料理のアイデアを、「1日シェフ」として共有してほしいとの連絡があった。
わたしは素人だし、先方もプロのシェフに依頼しているわけではない。つまりは、そこそこ気軽な雰囲気での依頼だったことから、引き受けたのだった。
FreshMenuでは、世界各国の料理をメニューに取り入れていて、アジア各国のテイストも日替わりで登場する。無論、顧客の多くが「スパイシーな味付けを好む一般的なインド人」ゆえ、いずれもインド風にアレンジされており、オーセンティックとは言い難い。
サーヴィス開始のころは、わたしも夫も時折利用していたが、選ぶメニューによって、かなり味付けが濃いことから(無論それは、日本の外食や弁当なども同様だが)、この頃は滅多に頼むことはなくなっていた。
わたしが作る日本の料理が、FreshMenuのメニューに活用できるか……などと考えていたら気軽に1日シェフなどやっていられないので、そこは深く考えず、「普通の味」で何品かを作ることにした。
とはいえ、インド。ヴェジタリアン・メニューが重要である。卵さえ食べられない人もいる。ノン・ヴェジといえど、牛肉や豚肉も使えない。かといって、ありがちな「照り焼きチキン」はつまらない。
というわけで、魚料理と、肉じゃがならぬ「鶏肉じゃが」を中心に作ってみることにしたのだった。
以下、当日の状況をざっとレポートしたい。
訪問したキッチンは、R&Dセンター、すなわち研究開発専用だ。あらかじめ頼んでおいた食材が用意されている。
インド料理だけでなく、各国料理に対応できるよう、さまざまな調味料が山のように収納されている部屋もあった。
この日、ともに料理をしてくれたのは、オリエンタル料理担当のシェフ。彼は日本料理が作れるフィリピン人シェフから巻き寿司などの日本料理を学んだらしい。これはその材料だ。
左端はいなり寿司の皮。できあいのものだと察せられる。生姜はさておき、すでに、日本料理からは遠く離れている印象。
一応、おやつも作ろうと、レシピノートを持参。写真を撮りながら思い出したのだが、このノート、ラシュミがFreshMenuを立ち上げる前、オンラインでインドの手工芸品販売のサイトを運営していたのだが、その商品の一つから、わたしにプレゼントしてくれていたものだった。
オレンジと青の2冊。どちらも丈夫で良質なノートにつき、この1冊は手書きのレシピノートにしている。6年くらいキッチンで使っているが、あまり傷みもみられない。
生地を作るまではいつもの通り、問題なく進むが、肝心なオーヴンの火加減がわからない。業務用の大きいもので、普段使うものと温度調整の塩梅が異なる。が、試してみることに。
素材を切ったり茹でたりは、シェフの他にも数名のスタッフがいるので、あっというまに準備ができる。
丸鶏を捌いて、玉ねぎ、じゃがいも、にんじんとともに「鶏じゃが」を作る。
こちらは、毎度おなじみ「健康にとてもよいバナナの茎」を使ったきんぴらごぼう。ニンジンとともに、ごま油で炒める。
どこから見てもきんぴらごぼう! 味見をする。わたしにはおいしい。でもシェフは無口。わかった。味が足りないのね。七味とうがらしがあったので、どさどさと振りかける。
このシンプルな卵焼きは、絶対に物足りないと言われること請け合いだったが、シンプルなものを作りたくて、あえて自分の卵焼き用フライパンを持参。一度焼き方を示したら、すぐに習得するシェフ。さすがシェフ!
インディアン・サーモンは、パーチメント・ペーパーの代わりにバナナの葉で包む。これは前夜の「調理実習@遅すぎる新年会」での実験結果を生かし、バナナの葉を多めにして包んだ。
完成! 助っ人が多いので、作業もあっという間に捗り、1時間ほどで全部仕上がった。
ホウレンソウのおひたし。我が家のパーティでは、このシンプルな料理が、インドの家族や友人らにも人気。しかし、海外の在住経験がある人、異国の料理を食べ慣れた人たちとは違い、一般的なインドの人たちの舌は「刺激が強いもの」に慣らされている。
「異国の味覚を理解しよう」という気持ちがあってこその、第一歩があるかないかで、食事に対する姿勢は大きく異なる。
日本人とて、それは同じこと。
昭和のころ、トマトケチャップたっぷりの柔らかく茹でたママー・スパゲッティを食べていた日本人は、アルデンテのかた茹でパスタを最初に食べた時、抵抗を示した。
雪印の6Pチーズなど、プロセスチーズしかなじみがない日本人が、初めてブルーチーズや、本当のパルミジャーノを食べた時の印象はどうだったか。
赤玉ポートワインこそが赤ワインと思っていた日本人が、初めてフルボディのドライな赤ワインを飲んだ時はどうだったか。
そこには、「この歯ごたえがパスタなのか」とか、「これが、本場の味なのか」とか、「なるほど、この臭みがいいのか」といった情報による学習があって、その上で、味覚が変容していく。
そういう好奇心やあらかじめの情報がなければ、ひょっとすると柔らかいナポリタンやボロネーゼのほうが口に合う人の方が多いかもしれない。
そういう諸々の食文化や味覚の背景や事情を慮れば、インドという多様性の国で「大多数」を対象に日本料理を展開することの難しさとチャレンジを痛感する。
少なくとも、このキッチンにいる、日本料理をよく食べ慣れないスタッフらにとって、わたしの作る日本料理は「味がない」であろう。
というわけで、しょうゆ、マヨネーズ、そして惜しみなく七味を振りかける。シェフが「わさびは?」と提案したが、それは押しとどめた。
鶏ガラで作ったスープ。しょうゆ、バルサミコ酢、塩でかなり濃厚な味に。
鶏じゃが。うっかり、加熱しすぎたが、ノープロブレム。これは、ぎりぎりで自分がおいしいと思える味を死守。
魚の蒸し焼き。おいしくできた。ネギは本来、下に敷くべきだったが、焼いている途中で敷き忘れたのを思い出したので、上に載せた。見た目は悪いが、おいしい。わたしには、おいしい。
カステラは、あいにく火力が強すぎたようで、焼き縮みが著しい。残念ながら失敗の領域。
さらに言えば、カステラは、1日寝かせてしっとりとしたものがおいしいのだが、まあ、そうも言っていられないので、切り分ける。
本来は、しっとりふわふわなのだが、これはだいぶ、パサパサみっちりだ。が、まあ、仕方あるまい。
先ほどまで、静かに見守っていたペイストリーシェフが、急に本気出してきた。フライパンで、なにやら温めている。その大量の黒いものは……まさか、チョコレートソース!?
ペイストリーシェフ、たいへん得意な感じで、カステラにデコレーション。原型を留めぬ自由奔放さ。
一同、「いいじゃないか!」的に、沸く。
違う。違うんだけど、でも、気持ちはわかる。特に今日のはパサパサだし。チョコレートでしっとりさせたい気持ちは痛いほどわかる。
フライドポテトにも、クラブハウスサンドイッチにも、ハンバーガーにも、ピザにも……と、なにかにつけてケチャップをかけてしっとりさせたい多くのインドの人たち。
グレイビー(汁気のある料理)とドライ(汁気がない料理)の調和を非常に重んじる多くのインドの人たち。
アップルパイにはアイスクリームを添える。チョコレートケーキにもソースを添える。スポンジケーキは生クリームたっぷり。
パサパサな料理は、食べるに値せず。
カステラ……ごめん! 生クリームを大量に巻き込んだロールケーキにしとけばよかった。
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なお、インドはヴェジタリアン(菜食主義者)が圧倒的に多いことから、本来ならばもっとヴェジ向け料理を準備するべきなのだろうが、今回はあくまでも、「自由に」作ったのであった。ただし、卵焼きやほうれん草、バナナの茎のきんぴらには「だし」などをいれず、ヴェジタリアンが食せるようにした。
そして、こちらはシェフによる巻き寿司系。ソースたっぷり。こういうタイプの料理は、オリエンタル料理店で、アジア各地料理の一つとして日本料理メニューがある場合によく見られるアレンジだ。
どれもこれも、味が強い。
上の二つはおいしかったが、一番下のいなり寿司は、MSGアレルギーのあるわたしにはダメな料理だった。MSGとは、味の素系の化学調味料。日本の加工食品には、「調味料(アミノ酸等)」とまぎらわしく表記されている。
いなり寿司の皮にMSGがたっぷり使われていた模様。一つ食べただけで、数十分後には喉が渇き、その後、急激な睡魔に襲われる。出来合いのいなり寿司の皮は、本当に危険だ。
ある程度は、わかってはいたものの、シェフらの調理の様子を見ていて、再確認することの多いインド味覚世界であった。多様性のこの国で「平均的な味」を追求することの不可能。どこに焦点を当てるべきかというテーマについて、改めて考えさせられるところ多く。
個人的には非常に面白く、楽しい経験であった。
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料理に関しては、わたしは素人とはいえ、仕事で市場調査を行うなどの経験もあり、ビジネス目的の場にヴォランティアで労力を提供するのは憚れられたことから、今回は何らかをミューズ・クリエイションに還元してほしい旨、ラシュミに伝えた上で協力した。
ゆえに、ミューズ・クリエイションのポロシャツ着用での1日シェフとなった次第。
彼女とは、
●ランチボックスに添える、ハンディクラフト製品を購入してもらう。
●チーム・エキスパッツ企画として、ラシュミを囲んでのビジネス座談会@STUDIO MUSEを実施。
ということで、話がまとまった。こちらもまた、楽しみだ。