「医者は薬などで一時的には病気の苦痛を取り除いてくれるが、その結果、人はかえって病気の原因(不摂生や油断)を戒めることを忘れる。よい薬、よい医者によって、肉体的苦痛を簡単に一時的に治してもらって健康になったと思うことの繰り返しで、人は何を失うのか。それは自分の肉体に対する精神の支配力であり、その結果、不摂生が助長される。人の心は弱くなり、自制心をなくし、真の意味で体を大切にすることを忘れてしまうのである。」
「近代文明の問題点は、それが肉体的幸福を人生の目的にしていることだ。できるだけ多くのものを着、できるだけ立派な家に住み、1日に何度もできるだけおいしいものを食べ、できるだけ肉体労働を節約して畑仕事をし、疲れないで遠くまで行くために汽車や車や飛行機を考え出し、できるだけ多くの人をたやすく殺す戦争の武器を考える。そうしたものを人は近代的だと考えて、道徳や宗教には関心を払わない。それがとてもよいことだと思っている。こんな文明はひとつの病気に過ぎないのだ。」
「われわれの祖先は、機械の作り方を知らなかったわけではない。彼らはとくと熟考してたうえで、われわれの手足の及ぶ限りのことをなすべきだと決めた。」
マハトマ・ガンディの言葉が、ことさらに、心に染み入るころ。
メールアドレスを登録していた、世界各地、特に米国のミュージアムから、次々に閉館のお知らせが届く夜。訪れたことのある、思い出深い場所を、Instagramでフォローしていく。そのときどきの、旅の情景が蘇る。
初めてパスポートを握りしめ、初めて日本を飛び出したのは、今からちょうど35年前。
故郷で、高校の国語教師になるつもりでいたわたしの視点を、価値観を、未来を、180度変えたのは、カリフォルニアでの1カ月だった。
あれから、いくつもの国を訪れ、無数の都市を、街を、村を歩き、無数の人々と言葉を交わし、経験を重ねた。
命短し、旅せよ乙女。
東西南北の人になる。
などと言いながら、旅を重ね続けた歳月。
15年前にインドへ移り住んでからは、まるで「もうひとつの、別の地球」であるような、この国の多様性に打ちのめされ、引き込まれる日々。亜大陸から外へと出る機会は減ったけれど、ここにいるだけで、飽くことない旅をするような日常。
若者向けのセミナーでは、国境を越えよ、旅をせよ、を熱く語り、百聞は一見に如かずと、価値観の転倒を恐れるなと、囚われるなと、訴え続けてきたけれど。
この状態が、永遠に続くわけではない。また遠くない将来、国境は開かれるだろう。通気性がよくなるだろう。しかし、閉ざされてみてよくわかる。そこに、自由の扉が開いている、パスポートさえあれば、いつでもひらりと飛び立てる、と思うだけで、どれほど心が自由でいられたかを。
昨日は少し塞ぎ込み(夫の在宅勤務が始まったこともあり!)、青空を仰ぎ、猫らと戯れど、溜息がちだった。
それと同時に、このインドという国の、伝統的な文化や習慣が、先進の国からは、折に触れて蔑まされるその「後進」のなかに、どれほどの強み、タフさが潜んでいるか、ということに、思いを至り、諸々、閃いては、深く頷く。
わたしが「好きなわけでもなかったこの国」に、いやがる夫を説き伏せて、敢えて自ら住みに来たのは、理屈ではない、しかしさまざまな因果関係があって、そしてただ利便性を追求し、昔ながらの叡智をなきものにし、先端だけを追い続ける世界への疑問も、あったのだと改めて思う。
素朴な家庭料理を用意して、友人を招く。味噌汁。日本米。ぬか漬け。魚のグリル。ポテトサラダ、出し忘れたけれど、酢の物もあった……。
インドの料理も、日本の料理も、昔ながらの食生活が、どれほど人間の身体を強くしてくれるか。
どんなにテクノロジーが進化しても、どんなに「モノ」が豊かになっても、目に見えぬウイルスを恐れ、こんなにもたやすく、身動きを制限せねばならぬ状況に陥る。
動物、生き物としての「ヒト」は、強くなるどころか、弱くなり続けてはいまいか。「温故知新」と「原始力」が、生き延びるに必要だと、改めて思う。
一次的欲求が健全に満たされていなければ、人類は衰えゆくばかりだろう。
いただきものの、おいしい日本酒を飲みながら、語り合い、夜は更けゆく。