時間の、歳月の、「長さ」とは、いったい何なのだろうと、半世紀以上を生きてきた今、その不確かさを切に思う。
時間の流れとは主観的なもので、1秒1分の刻みも、そのときどきの自分が置かれた状況や心境によって、著しく伸縮する。
だからもう、「若い」とか「老けた」とかの定義付けや、「死」までの距離の近さ遠さを、「年数」で数えることに、違和感を覚える。
たとえ20歳でも、未来に希望を描けなければ、若くはない。
たとえ70歳でも、明日の到来を待ちわびていれば、若い。
ロックダウンに入って4カ月以上が過ぎ、この間の時間の感覚は殊更に奇妙で、長いのか短いのかも、よくわからない。
時間はあるはずなのに、ゆっくりと読書をしたり、映画を見たりする精神的余裕がなく、日々は過ぎていく。
しばしば、夜を迎え、しばしば、寝ている気がする。
些細なことで苛立ったり、些細なことで感傷的になったり、自分を抑制するのに困難なこともある。
昨日は、夫の誕生日だった。希望の光を輝かせたく、まばゆい黄色の花々を注文した。いきいきと力強く、美しい。
夫のリクエストでロールケーキを焼いた。折に触れて食べたくなる、素朴なおいしさ。二人で12人分はいかにも多いので、ドライヴァーのアンソニー宅へもお裾分け。
今日は、運転免許証の更新手続きのために、久しぶりに外出した。日本の運転免許証は20年以上前に失効した。
ニューヨークのライセンスを持っているが、今回、グリーンカード(永住権)の維持が厳しくなったので、近い将来、失効する。
ゆえに、この8月31日の誕生日に失効する、ここカルナータカ州の運転免許証を更新すべく。
当然ながら、マスクをして出かけたが、案の定、ソーシャルディスタンスの概念がほぼ皆無の世界にて。
業者に作業を依頼し、最後の写真撮影とサインの記入だけをしに行くだけのはずが、予想通りの混沌。
極力、安全地帯に身を置きながら、自分たちが引きこもっていることに、果たしてどれほどの意味があるのだろうかとすら、思う密。
なにもかもが不確かすぎる世界で、確かなものは、自分で構築していくしかない。
延々と続く、模索。
とりあえずは、しっかり食べよう。しっかり寝よう。しっかり生きよう。